4月15日:書架より~『尼僧ヨアンナ』(イヴァシュキェヴィッチ著) 

4月15日(月)書架より~『尼僧ヨアンナ』(イヴァシュキェヴィッチ著) 

 

 修道院の尼僧長ヨアンナに悪魔が憑りついて、悪魔祓いにスーリン神父が派遣される。その悪魔祓いの顛末を描いた作品。17世紀に実際にあった悪魔祓いの話を基にして作られているそうだ。この作品は1946年に出版され、映画化されている。 

 

 悪魔が憑くのは女性たち、尼僧たちである。その描写は現在で言うところの解離性障害、多重人格、古くはヒステリーそのものという感じである。ヨアンナの口を借りて悪魔がスーリン神父に語るくだりなどは、さながら多重人格もののノンフィクションに在るような記述である。 

 驚いたのは、悪魔祓いが集団でなされていたというところだ。村の人たちが見物にやってくる。完全な見世物だったわけだ。 

 ヨアンナたちはそういう悪魔祓いを受けるが、これは効果がない。そこでスーリン神父は個室で一対一で対話するという方法を取る。 

 この流れは精神病患者の処遇の流れと似ている。ヒステリー性の症状に対して、衆人環視の状況ほどよろしくないものはない。自己顕示欲を満たすからだ。だから、スーリン神父の処置がとても適切なものに思えてくる。 

 しかしながら、スーリン神父がいくら尽力しても、ヨアンナに憑りついた悪魔は祓われない。彼はユダヤ教のラビに面会を申し出る。ここで彼が体験すること、それは彼の中にある悪を見ることだったように思う。 

 スーリン神父はひたすら神に支えてきたのだが、そこには「偽善」もある。周囲の人間にはそれが見えている。神父に感情移入して読んでいると、彼がいかに孤立していて、周囲の目が冷たい時があるのを感じる。中でもヴォウォトヴィッチは神父が隠している部分を見透かすかのような存在である。 

神父は自分は「善」だと信じているが、それは「悪」を切り離しているだけで、見ないようにしているだけで、彼の中にも善でない部分があるわけだ。神父が見ないできた自分の抱え物に直面してしまうという体験をラビのところでしてしまう。これは神父にはとても強烈な体験で、彼は一時的にせよ自我同一性の拡散状態に陥る。 

 臨床的に言えば、処置する側がここまで揺さぶられてしまっていると、クライアントには会わない方がいいのだが、神父はヨアンナへの愛のために悪魔祓いを続ける。 

 この悪魔祓い、ヨアンナに憑りついた悪魔を神父に乗り移らせるという形を取る。ヨアンナはそれで救われる。それもそのはずで、神父が引き受けてくれたからである。でも、この悪魔はスーリン神父の中の悪の部分でもある。同じものを人間は持っているから引き受けることができるのである。神父はヨアンナに対して行っていたことを、自分自身でしなければならなくなる。つまり、自分の中で悪と葛藤するわけである。 

 実話の方では、尼僧の悪魔を乗り移らせた神父は自殺してしまうのだそうだが、ここではそれ以上にショッキングな結末がある。純粋で敬虔な人間が犠牲となってしまうのだ。 

 ヴォウォトコヴィッチは不思議な存在である。物語の最初から登場するのだが、これは神父とは正反対の人物である。神父の影のような存在だ。だから、神父は彼にある意味で惹かれてしまうのだ。ラビを訪れる時にも彼を連れて行ったことが象徴的である。神父が自分の中にありながら否認しているものがあり、それは自分の外に追いやってしまわなければならない。つまり、それを投影して引き受けてくれる対象が必要なのだ。それがここではヴォウォトヴィッチが担っているように感じた。 

 本書のタイトルは『尼僧ヨアンナ』だけど、実際には『スーリン神父』でもいいくらいである。物語は神父を中心にして綴られている。そして、読む側は神父に同一視し、感情移入してしまう。そして、とても痛々しい物語である。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

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