4月9日:義務として書く

4月9日(火)義務として書く 

 

 深夜勤務明けでこれを書いている。書く気はまるで起こらない。でも、何か書かないとと思う。サイトの更新履歴のためだけのブログだ。まるでつまらない。義務で書いているだけだ。面白いことや書いて残しておきたいような出来事は日々いくつも体験する。でも、一切、他人に触れないように書こうとすると、どうしても書けなくなってしまう。 

 

 僕の生活は相変わらず不規則だ。酒も飲む。でも、酒は週に一日か二日程度だ。飲まない日の方が多い。それに、以前ほど欲しいとは思わない。酒が欲しいと思う時は、同時に何か食べたいと欲していることが多い。純粋に酒だけを動機にして飲むことはすごく減ってきた。 

 

 クライアントと別れた時、あるいは誰かと別れた時には呑むようにしていた。僕なりの「喪の作業」のつもりだった。今はそれもあまりないな。 

 よく酒を飲んで「憂さを晴らす」と言うけれど、「憂さ」とはつまり「憂うつ」のことなのだろう。僕はあまり酒でそういう経験をしたことがない。むしろ、飲めば余計に「憂さ」を溜め込んでしまう方だ。 

 でも、酒を飲んで、例えば出入り禁止になったりとか、注意されたりとかは経験ない。それなりにまともな飲み方をしているのだろうと自負しているのだが、そもそも「憂さ晴らし」の飲み方をしないから当然なのかもしれない。羽目を外したり、騒いだりとかはしない。 

 飲酒して、余計に「憂さ」を溜め込むとは、つまり、翌日になると後悔したりするからだ。飲んで、やっぱり飲むんじゃなかったと思うことは多々経験している。それは新たな「憂さ」を僕にもたらす経験なのだ。 

 僕自身が疑問に感じているのは、僕はむしろ「憂さ」を経験するために飲酒しているのではないかと思うことだ。それはちょうどギャンブラーが負けるためにギャンブルをするというのと同じようなものだ。ボロ勝ちしてしまうと、ギャンブラーは彼の人生でもっとも魅力ある対象を失うことになるからだ。つまり、ギャンブルの魅力を失うということなのだ。それと同じような感覚ではないだろうか。 

 

 しかし、今日もまた下らないことをダラダラと綴ってしまったな。僕の飲酒話など、誰も聞きたいとは思わないだろうし、誰も聞きたくもないということが僕には分かっている。カウンセラーとか心理学者とかいうものは、とかく人の好奇心を刺激するものだと思う。このブログを読んでくれている人があるとすれば、それはそういう好奇心を満たすためだけにそうするのだと、僕は捉えている。純粋に僕という人間に興味を抱いてこれを読んでくれている人がいるとは、僕には少しも思えない。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

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