4月10日(日):母校にて
今日はブログを書こう。ここのところサイト作業に時間を割いていてブログの方が疎かになっている。
サイトは、これまでと方式を変えなければならず、まだまとまっていない部分も多い。できるところから取り組んでいるが、何しろ膨大な作業量だ。いつ終わるか定かではない。
サイト作業以外のこともしなければならない。仕事であれ僕の身辺のことであれ、多くのことが中途で停滞している。それらも並行してこなしていかなければならない。
そして、さらにそれ以外の様々な雑用が割り込んでくる。今日は京都府知事選挙がある。こういうのも割り込んでくる雑用である。それでも投票だけはしておかなければ。ロシアであれ、かつてのドイツであれ、まともなのを選ばないと世界中が被害を被るのだ。都道府県の知事にしても然りである。
と言っても、今回は二人のうちの一人を選べばいいだけなので気がラクだ。現職の人が継続するか、新しく立候補した人が交代するか、二つに一つである。
さて、その選挙であるが、僕はいつも期日前投票している。今回、時間もありそうなので当日に投票することにした。会場は僕の母校の中学校である。たまには母校に足を踏み入れてみるのも一興かなといった軽い気持ちだ。
そう思っていながらも、家を出ると、いつもの癖で駅に直行しそうになった。いけないいけない、中学校に寄らなければならないのだ。これはフロイト流の失錯行為ではない。もし、僕がそのまま駅に直行して電車に乗ってしまったとすれば、それはフロイト流の解釈が成り立つというものだ。正直言って、今回の選挙は気乗りしていないのだ。でも、失錯行為にまで至らなかったので、フロイト流の解釈をするのは誤りである、と僕は考えている。
その失錯行為が実現するか否か、失錯行為に至るか至らないかの違いなんだけれど、この違いは見逃してはいけない。失錯行為に至りそうになるところを軌道修正できるのは、自我の統制力がそれだけ保たれていることを意味するからである。フロイト流の失錯行為というのは、自我の統制力が弱まって無意識にあるものが表に現れてしまうということであるからだ。
それはさておき、僕は母校に足を踏み入れる。卒業後も選挙で何度か足を踏み入れたことはあるものの、今回は久しぶりという気がする。校門を潜る時はちょっとワクワク感もあったけれど、一歩入ってしまうと、もはや何の感情も湧かなかった。淡々と投票して後にしたという感じだ。
当然と言えば当然なんだけれど、僕が在校していた頃とは様子がかなり異なっている。校舎もきれいになったし、当時よりも校舎が少なくなっている。だから母校であることに変わりはないんだけれど、別の学校に来たという感じがしてしまうのだ。10代はもう遠い昔のことだ、と改めて思う。
まあ、それでいいのだ。過去は過去にしていかなければならないのだ。過去を過去にできて始めて僕たちはその過去から学ぶことができるのだ。中学時代のことはもはや僕にはなんの影響も及ぼさない。そうなって始めて中学時代のことが純粋に回想きるのだ。それがもはや現在性を失っているが故に、僕はそれに向き合うということも可能になるのだ。
確かに、淋しい気持ちも生じる。懐かしい気持ちとか、ノスタルジーに耽りたい気持ちがもう少し生じるかと期待していたのだが、まったくそういうことも起きなかったのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)