4月3日:死は生の目標にあらず 

4月3日(水)死は生の目標あらず 

 

 生きていて、支えが欲しいと感じる時がある。相手と親密になって、お互いに理解し合えて、支え合えるような関係が築けたらいいなと思う。 

 友人はいる。一緒に仕事をしている仲間もいる。交際している女性もいる。その誰も悪いわけではない。彼らも僕にとっては大切な人たちだ。でも、僕の望んでいるような体験はどうしても得られないと感じている。いつも満たされない何かを体験している。 

 

 いつだったか、何もかも嫌気がさしてきて、希死念慮に襲われたことがある。日記を見ると3月28日の木曜日だった。僕はそれを振り払うために、勉強に打ち込んだ。その晩、死ぬことを考える代わりに、論文を七つほど読んだ。 

 何かに打ち込むことはとても助けになるなと、その時、感じたのを覚えている。クライアントを支え、援助しようとは思うが、僕も人間だ。それも孤独な人間だ。折れてしまいそうになることもある。そういえば、最近は孤独感を強く覚えることが多いな。 

 

 孤独死は人間の本来的な死に方ではないかと思う。どれだけお祭り騒ぎをしても、帰る時は独りだ。それと同じこと。いくら家族や大勢の友人知人に囲まれても、死ぬときは独りだ。 

 僕はよく「50歳まで生きれたら十分だ」と言ったり書いたりする。それは僕の本心だ。僕は今年の誕生日で42歳になる。あと8年ほど生きられたらそれでいい。50歳までに、これまでの人生で作ってきた貸し借りをチャラにできればいいなと願う。そして、贅沢を言えば、あとの8年ほどの間に、まっとうな人生を送り、何かを達成できればいいと思うし、人様の役に立てればいいなと思っている。 

 

 しかし、クライアントから「50歳で死ぬなんて言わないで下さいよ。もっと長生きして下さいよ」と言われたこともある。あんまり僕がそういうことを言うと、クライアントは希望が持てなくなってしまうのだなと、僕は痛感した。 

 これは僕の人生が短くても充実した一生であればいいなという願望の表明であって、何も50歳になったら人生を終えるつもりだなんていう意味じゃないよ。それ以上に長生きするかもしれないし、長生きできればそれにこしたことはない。 

 それに、僕は死を人生のゴールだとは捉えていない。確かに、僕の人生は僕の死でもって終わるということは変えようのない事実だ。いくら抵抗したところで、死は必ず訪れるものだ。 

 僕が述べているのは、つまり、人間は生まれた時から死に向かって歩んでいる存在だというような思想のことだ。それでは人生の目標は死ぬことだと言っているのと変わらないように思う。僕は人生の目標は人生の中で確立できた方がいいと思っている。死は一つの到着点であり、終点であり、決して人生の目標にはならない現象だと思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP