4月9日:筆のすさびに

4月9日(土):筆のすさびに

 

 最近はブログも書く気がせず、それでいてアタマの中ではいろんな観念が渦巻いている。それらの観念は出口を求めているけれど、僕自身がその出口を用意することができないでいる。いや、用意することはできるのだけれど、それをする意欲がない。なにもかもがウンザリだ。

 それでも書こう。おそらく内容的にまとまったものは書けないだろう。だから、散漫になってもいいので思いのままに綴っていくことにしよう。テーマを決めて書くというような作業は今の僕にはしんどいことだ。

 このしんどさの要因の一つとして、サイトのやり方が変わったということもある。いや、これはけっこう大きい。今までやってきたのと違う形でやっていかなければならないのだ。要するに、少なくとも11年かけて積み上げてきたものを一からやり直さなければならないということなのだ。11年かけて身につけてきたやり方を一から変えなければならないということだ。どうしても億劫に感じられてしまう。

 業者に依頼した場合、すべて業者任せにするわけにもいかないので、多少は僕の仕事が増えることは覚悟している。でも、作業量が膨大すぎる。こんなふうにしかできないIT屋を僕は一切信用しない。

 ともかく削除した2000ページの復旧だ。加えて、新たに書き足さなければならない部分もある。気が遠くなるような作業量だ。毎日ちょっとずつはやっているけれど、終わりがいつ来ることやらである。

 それに、そればっかりやるってわけにもいかない。他にも仕事はあるし、私生活の領域のこともある。いい加減ウンザリしてくる。

 

 足のこともある。それに身体のことも。この2、3週間くらい、足の痛みを抱えていた。今回は激痛というほどの痛みではないけれど、割と期間が長い。一週間くらいで治まるだろうと高を括っていたら、思いのほか長引いている。今日は痛みはあまり無いけれど、膝に違和感があり、動かすと痛いし、同じ姿勢をずっと保っていても痛みが走る。

 この前の火曜日はかなり痛かった。両親が不在中だったので、家に僕一人だった。それで足が痛く動かせない。いや、動きたくないのだ。その日はほとんど寝たきりの状態になってしまった。

 寝たきり生活というのは、こういうのが毎日続くってことなんだなと、改めて思った。絶対にイヤだと思った。寝たきり生活というのは、かように惨めなものなのだということを僕は知った。必要なものは身の回りに集めて、非常に狭い空間領域だけで生を営む。とても人間らしい生き方とは言えない。そこで意地でも体を動かそうとするのだけれど、すぐに動かしたことを後悔する。痛みが引くまでは何もできない。

 それが火曜日のことだ。一昨日までは杖を突いて動いた。昨日から杖無しでやっている。痛みは徐々に引いていったけれど、ある程度普通に歩けるようになるまでは杖をついて おくことにした。

 それに、こういう状態になるととにかく体力を消耗する。歩いて10分の距離を20分かけて歩かなければならなくなる。体力は二倍消耗することになる。階段の昇降なんてさらにひどいんじゃないか。三倍くらい消耗しているかも。

 とにかく、この2,3週間はたいへんな毎日だった。ずいぶんいろんなことが停滞し、遅れてしまった。これから取り戻していかなければならない。

 

 体がどうなっていくかは心配である。足が動かせないと、本当に廊下を這いつくばって進まなければならない。階段も両手両足すべてを使って昇降しなければならなくなる。生あるうちは生きる。どんな姿になろうとも生きると僕は決めている。情けない姿になろうと、人から笑われようと、人間らしい動作ができなくなろうと、最後まで生きてみせる。

 生の厳しさを知ると、恥の感情なんて雲散霧消してしまう。恥だと思う余裕すらなくなる。生きるということはそういうことなんだ。

 一からやり直せと言われればするつもりだ。ただし、それだけの時間が僕に残されていればの話だ。本当、あとどれだけ生きられるだろうか。やり直すだけの時間が本当に残されているだろうか。

 

 厭世感情は昔からあった。若いころから僕はそうであった。生きているとそのうちいいこともあるさなどとは、なかなか思えない人間である。苦悩は常にあり、これからもあり、これまでもある。人生とは苦悩の連続としか思えない。そんな中でも生きていこうとするところに人間の尊さがあると僕は考えている。苦悩の連続でしかない人生を耐え、そんな人生でさえ受け入れるところにその人の偉大さがある。それを受け入れない人間が精神病になるのだ。

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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