1月21日(月):忙しさと充実感
相変わらずあれこれと忙しい一日を過ごしている。まだ、今日は終わっていない。でも、この後、僕は夜勤をする。
ただ多忙なことがいいとも思わない。多忙であるということと、充実感があるということとは、必ずしも一致しないものだ。多忙であり、それが前へ進んでいるという感覚を僕にもたらしている限り、僕はその多忙な一日の中に充足感を見出す。
この多忙は自分で選んだものだ。今日、何をどこまでやるかということを、朝の内に、あるいは昨晩のうちに決定する。主体的に選択している自分を体験できるのだ。それが今の僕には、自分を維持するのに不可欠なように思われている。
予定外のことも起きる。そういうのは日々の生活につきものだ。隣の工事に加えて、建物の前を水道工事で掘り返している。騒音と振動が二倍になった。頭に来る。午後の空き時間、予定を変更して、僕は喫茶店に避難した。朝から騒音に悩まされて、頭痛がしていたのだ。
この頭痛は敵意がもたらしたものだ。頭痛とは、多くの場合、敵意と関係する症状である。避難して、工事が終わる時間帯に戻って、作業の続きをこなす。予定していたことの全部はこなせなかった。まあ、ある程度のところで満足しておかなければならない。7割から8割こなせれば、それで十分だと捉えるようにしている。あまり完全主義的になってもよろしくないからだ。
昨日のブログは、とにかく忙しいとか、生きるとはそういうことなのだということをやたらに述べていたので、誤解を生むと良くないと思うので、今日はこんなことを書いているわけだ。
多忙であっても、予定外のことは受け入れた方がいいし、ある程度までこなせればそれでよしとしなければいけない。多忙なだけではいけなくて、そこに前進が見られるから充実感があるのである。充実感があると、忙しいということを受け入れることができるようになるものだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)