1月1日(火):新年を迎えて
謹賀新年
私もどうにか新しい年を無事に迎えることができました。
子供の頃は意識したことがなかったのだけど、新年を無事に迎えることができるということが、どれほど難しいか、僕はそう思うようになった。この日が来ると、ここ数回はそれを実感している。
子供の頃は当たり前のように大晦日を過ごし、新年を迎えていたように思う。僕にはあまり新年の云々という感覚はなかったかもしれない。友達から年賀状が届いて、お年玉がもらえる日くらいにしか感じていなかったかもしれない。
今の僕は人がどれだけ生きていくために苦労しなければいけないかを、子供の頃よりかははるかによく理解している。まだまだ理解不十分だとは思うけれど、成長して、多少は物事が見えるようにもなっただろうとは思っている。僕が生きているということは、当然のことではないし、自明な現象でもないのだ。
他の人たちと同様に、僕もまた僕の人生の途上にある。僕自身のプロセスの中を生きている。僕の意志に反して、このプロセスが一方的に中断させられてしまうことも起こり得る。どういうことが起きるか予測のつかないのが人の生だと思う。
この予測不能性は常に僕の実存を脅かす。存在の根底に目を向ける時、僕は自分の存在している基盤がどれほど脆いものであるかを実感する。それを実感する時、僕は自己の消滅の不安を体験する。不安性障害と診断される人が体験している不安とは、根本的にこの類の不安である。人間は自分で思っている以上に不安定な存在なのだ。
今、これを徹夜明けに書いている。いささか頭がボケている感じがする。長時間起きている時に体験するあの感じだ。浮かれ騒いでいる人たちを何人も見かけた。それもいいだろう。楽しい思い出も、ないよりかは、一つでもあった方がいいだろうとは思う。コンビニに居てると、そういう人たちが買い物に来るのだ。一時の愉悦に浸ることができるのも健康の証かもしれない。ただ、僕はそれを求めないだけだ。それでも、以前ほどの浮かれ感はなかったように思う。これも時代の流れか。
昨晩、実に久しぶりに常連だったお客さんと会った。向こうも僕のことを覚えてくれていた。7年以上前に僕がバイトしていたころの常連客だった。僕を見て、彼は「君は全然変わらないな」と驚いていた。僕がバイトに復帰して、何人かそう言ってくれる人がいる。もちろん、良い意味で言ってくれているのだ。年齢を取ったように思われないのだ。つまり、老けて見えないということなのだ。
若さは保ちたいとは思う。でも、それは外見上のことだけだ。内面的にはすごく違っている。7年前とは変わっているのだ。世の中も変われば、僕自身も変わっている。変化を実感するためにも、また、どれだけのものを積み重ねてきたかを測るためにも、こういう節目になる日があるのはいいことだ。
ウダウダと書いてきたけれど、特に何が書きたいというわけでもない。思いつくままに書いている次第だ。ブログとはそういうものだと聞いたこともある。だから開き直っている。まとまった事柄を書こうとは意識しない。
まあ、とにかく無事に新年を迎えることができた。これはつまり、平成24年を生き抜いたということである。これからの平成25年、僕はどんな生を送るだろうか。無事に平成26年を迎えることができるように、また生きていこうと思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)