10月9日(木):「桃太郎」講話(下)
「鬼が島に到着した桃太郎は、仲間のイヌ、サル、キジと協力して鬼退治を達成する」
桃太郎はついに人生上の目標を達成するわけだ。この達成には、仲間たちがおり、きびだんごに象徴されている両親の存在も含まれているわけだ。個人が何か目標を達成するとはこういうものだと思う。
さて、桃太郎は親のために鬼退治をしたのではない。また、親は桃太郎の鬼退治に同行しない。これらの点は特に重要だと思う。
子供の人生上の目標達成に親は直接的には何もできないし、何もしてはいけないのだ。親が代わりに鬼退治に行くことはできないし、加勢することもできない。ただ、いつか役に立つ「きびだんご」を子供に持たせてあげるだけなのだ。持たせた「きびだんご」も、それがいつどのように役に立つかは、親自身も知らないのだ。今後の子供の人生のどこでどう役に立つか分からないものしか、親は子供に与えるしかないのだ。
また、鬼退治は桃太郎の目標である。親の目標ではないのだ。ここには親には親の人生があり、子供は子供で親とは違った人生目標を持ち、その達成に尽力することの教えが含まれているように僕は思う。
子育てで苦しいのは、親が鬼退治の最後の瞬間まで子供に付き添おうとしてしまうからかもしれない。きびだんごを与えるだけでは不十分だと信じてしまうからかもしれない。
子供が親のことで苦しむのは、きびだんごしか与えてくれなかったことへの憤りかもしれないし、きびだんごをどう活用するかを教えてくれなかったことへの恨みであるかもしれない。最後まで同行してくれなかったことで見捨てられてしまったように体験しているかもしれない。でも、桃太郎の物語によれば、そこはもう親が関与するべき部分ではないのかもしれない。
さて、ここからは空想のお話。
もし、鬼退治に向かった桃太郎の一行が、鬼退治に失敗した場合、どうなっていただろう。
桃太郎は両親のもとに帰るかもしれない。人生に絶望して、イヌ、サル、キジを率いて愚連隊を結成するかもしれない。後者は却下して、一応、親の家に戻るという場面を想定しよう。
親は桃太郎の帰還を喜ぶだろう。そして、おばあさん(母)は桃太郎(子)になんと言うだろうか。「桃太郎や、鬼退治なんて、そんな危険なことは止めて、ウチで一緒に暮らそう」なんて言うだろうか。おばあさんがこれを言ったら、昔話にはならないし、鬼退治に向かう我が子にきびだんごを持たせる母親がそんなことを言うはずがない。
おばあさんは言うだろう、「桃太郎や、もう一度鬼退治にチャレンジしておいで」と。そして、前回同様、きびだんごを桃太郎に持たせるだろう。母親とはそういうものではないかと僕は思う。
桃太郎はそれにどう応じるだろうか。「きびだんごなんて、鬼退治に何の役にも立たない」と言って、きびだんごを捨てるだろうか。きっとそうはしないと僕は思う。桃太郎は、ここで、親からもらった資源(きびだんご)を新しいやり方で活用することが求められているわけであり、桃太郎はきっとそれをするだろう。
きっとそれをするだろうと僕が思うのは、次の理由である。桃太郎はきびだんごを仲間を集めるために使用した。それはきびだんごの使用例としては創造性の高い行為であると僕は思う。桃太郎にはそうした創造性がある。だから、次回も彼は持ち前の創造性を発揮して、きびだんごが本来有することのない用途を編み出すだろう。そう思うわけだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
ああ、くだらない内容だ。バカげたことを書いている。これを考えた当時は、良いものが書けそうだと思ったものだった。しかし、仕上げてみると、なんとも中途半端なものにしかならなかった。そんな気がしている。
(平成29年2月)