3月22日(火):平和は身近なところから
今日は定休日である。休日はとにかく歩く。体を動かさなければ本当に体が動かなくなりそうである。無理をしてでも動かさなければ。特に脚力は衰えが速いので、歩くということをしなければならない。
歩くのは、もう走ることができないからである。軽いジョギング程度をした方がいいのかもしれないけれど、ヒザの問題のために無理である。ともかく、できることをする。
今日は朝から雨であったが、それでも歩きに出る。まず、レンタルDVDの返却に向かう。今回はあまり映画を観る時間が確保できなかった。それでも借りた作品を鑑賞するにはした。ただ、十分に観たという感じではない。
途中、パチンコ店にて休憩を挟む。適度に休憩も入れなくてはいけない。ぶっ続けで歩くこともできるけれど、無理なことをするとどこかにガタが来そうである。無理も禁物だ。
それからケータイショップなど、数軒回る。14000歩は歩いた。休日のノルマは達成しているので、それでよしとする。
まん延防止は解除されているが、あまりその実感は湧かない。もっとも、まん延防止なんてきちんと守られていない部分もり、解除されてもあまり変わらない感じがするのも当然といえば当然かもしれない。
それよりも、この解除は経済を回すための解除である。だから経済を回していかなければならない。そうでなければ解除の意味もなくなるし、宣言を守ってきたことの意味も喪失するかもしれない。解除されて、どれくらい経済が動いているのだろうか。
ロシアとウクライナの戦争も相変わらずだ。ウクライナ支援の動きも活発なようである。
支援も大事であるが、それと同じくらい大事なことがある。戦争をやっていない国こそ、積極的に平和を実現させなければならないのだ。一緒になって戦争するようではいけないのだ。戦争やってる国の人たちに対して、平和を実現することがどういうことであるかを、戦争をしていない国が手本とならなければならないのだ。
こういうことは親子間でも生じる。子供に問題があって、子供が不幸そうであると、親は自分が幸せになってはいけないと感じることがある。子供置いてきぼりにして自分だけ幸せを求めていいのだろうかといったことを訴える親もある。それに対して、僕は「それでいいんです」と後押しする。
親が幸福な人生を実現できているということは、子供に一つの手本となり指針ともなる。子供がどう受け取るかは別としても、一緒に不幸になることはないのである。未熟な子ほど、親だけが幸せになることを許せないと感じるものである。こういう子にとっては一緒でなければならないのである。差異を認めることも受け入れることも困難なのである。
戦争の話に戻ろう。戦争をやらかしている国に対して停戦の働きかけをすることは重要であり、必要なことである。寄付したり支援することも大切である。しかし、前者は政治家でないとできないであろうし、後者は経済的にゆとりのある人でないと難しいかもしれない。でも、政治家でなくても、裕福でなくてもできることがある。一人一人が平和的な生活を実現することである。
従って、ウクライナの味方をしてロシアに対してヘイトスピーチをするなどということは、ウクライナの人たちにとって手本にもならなければ、指針にもならず、目標にもしてもらえないということである。
世界平和は案外自分たちの身近なところから始まるのだと僕は思うのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)