<#004-6>話を聴かないこと 

 

話を聴かないこと) 

 カウンセラーの仕事は、クライアントの話を聴くことだけでなく、その話を完結させることが含まれ、さらに話を聴かないことまでが含まれるのであります。本項ではその最後のものを取り上げることになります。 

 ユングの自伝中にアメリカ人クライアントのことが記載されているそうです。実は私はユング自伝は未読なので人から聞いた話なのですが、アメリカからスイスのユングのところまで毎週飛行機で通ったアメリカ人クライアントがおられたそうです。そのアメリカ人はただユングを前にしてお喋りをして過ごしたそうなのであります。何か問題を話し合ったりとか、治療的な試みがなされたとかいうわけでもありません。それでも、このアメリカ人は「良くなり」、ユングに「感謝した」というのであります。 

 私はそれも分かるような気がします。問題とか(ユングで言えばコンプレックスとか)に敢えて触れないことの重要性が指摘できると私は思うのです。そこを話させないし、聴かないのであります。 

 また、子供に何か心的な問題があって、親(特に母親)が我が子のカウンセラーになろうとするといった例があります。母親がカウンセラーになって子を助けることを推奨するような専門家もおられるのですが、私は反対です。母親がカウンセラーになるなんて、子供にとってはまあまあな悲劇ではないかと思うのであります。 

 それはさておき、こういう母親はまず子供のことをすべて知ろうとしてしまう傾向があるように私は思うのです。あたかも隠し事は一切認めず、すべてを話しなさいと子供に求めているような母親とも私はお会いしたことがあります。子供の話をよく聴くようにという「教え」のためでしょうか、なんでも子供に話すように求めるのであります。子供にとっては災難でしかないでしょう。 

 ユングとこの母親との違いは何か、別の喩えで述べましょう。 

 この母親は、いわば、子供に服を脱げと求めているようなものではないでしょうか、すべてを曝しなさいと求めているようなものであると私には映るのであります。ユングは、むしろ服を脱ぐことを求めていないと言えるのであります。言うまでもなく、服を脱がせる相手よりも、服を脱がせない相手または服を着せてくれる相手に対して人は信頼を寄せるものであると私は思います。 

 その人にとって本当に重大なことは、その人が自ら話すのでなければ(時には自ら話した場合でも)こちらからは聴かないこと、話させないことということがカウンセリングにおいては重要な観点になってくると私は考えています 

 

引き出さないこと) 

 今の話はクライアントの話を過度に引き出さないということにつながるのです。時に、クライアントから話を引き出そうとするカウンセラーさんや、子供から話を引き出してほしいと依頼してくる親なんかも見かけるのですが、反吐が出る思いであります。 

 20代の後半頃にゲシュタルト療法のワークショップに私は参加したことがあります。そこではワークとして、参加者の一人がクライアントになり、その他の参加者がそのセラピーに参加するという形態をとっていました。 

 最初に中年くらいの年齢の女性がクライアントになりました。彼女は父親に対する思いを発散させたのでした。そして、これは良くないことだったと今では思うのですが、臨床家の先生もその他の参加者も、彼女の思いを引き出し過ぎたのであります。 

 そのワークの後、私が見た限りでは、明らかにその女性の様子がおかしいのであります。どこかしんどそうであり、動作も緩慢になった感じがします。そのワークショップは二泊三日の泊りがけで行うものだったのでしたが、初日の夜にその女性はリタイアされたのでした。 

 この女性には申し訳ないのですが、私は若い時期にそういう場面に遭遇できたことを幸運に思うのであります。また、クリニックに在籍していた時期にも、この女性のような目に遭ったと思われる方々を目にする機会がありました。私は今では確信しているのであります。「心の扉」というものはむやみに開けてはならないものなのであります。 

 

(何を聴き、何を聴かないか) 

 以上を踏まえると、各々のクライアントには話していいものと話してはいけないものとがあるということであり、カウンセラーも同じように聴いてよいものと、聴いてはいけないもの(あるいは引き出してはいけないもの)とがあるということになります。 

 では、カウンセラー何を聞き何を聞くべきではないのか、またはクライアント何を話し何を話すべきではないのかそうした疑問生まれることになります。 

 基本的にクライアントが自発的に話す事柄についてのみ、カウンセラー話を聴くことが許されるのであって、また、それについてのみ考察することができるのである、と私は考えています。 

 クライアントが自発的に話した事柄から私が何かの仮説を立てるという場合、その仮説は私に属しているのであって、クライアントに属しているのではないことは自覚しておかなければならないのであります。それを伝える際には、あくまでも私の個人的見解として伝わるように工夫が要るのであります。 

 そして、どんな場合でも、私の方から追及を断念しなければならないのであります。あることを話してほしいとクライアントに頼みます。クライアントはそれを拒みます。そこでもう少しだけ私は粘るようにするのです(これは理由があってそうするのです)が、最終的に私の方が断念するのであります。クライアントが話したくないと思うことは、無理に話さなくてもいいのであります。 

 ある人にとって、どれを取り上げてよくて、どれを取り上げてはいけないかということは、それこそ人によって違ってくるのであります。私は一人一人の人からそれを学んでいかなければならないのであります。そして、取り上げない方がいいと思われるものがあれば、その人にそれを話させないという姿勢が必要になることもあるのす。 

 以上を踏まえて、「話すラクになる」という通説は、話すことは話し終え話さないところは話さないことが許容されたから、ラクになる」と私は考えています。個人の秘密は秘密のままにしておけばいいと思うのです。 

 しばしばカウンセラーは(私も倫理上明記しているのですが)、「秘密保持」ということを約束します。こういう文言があると、個人の秘密を打ち明けなければならないなどと思い込んでしまう人も現れるのではないかと私は危惧するのであります。実際、限られた時間で個人のすべてを聞き出すなどということは不可能でありますし、話したくないことまで無理に話させようとは私は思わないのであります。話された範囲内で一緒に考えていくことになるわけであります。私はそれでいいと思います。と言うのは、一緒に考えていくという経験の方が望ましいことであると私は考えているからでありますが、このことは本項のテーマとは外れてくるので、機会があれば別箇所で取り上げたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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