<#004-5>話し終えること
前項では、話すとラクになるといった通説を糸口にして論を進めました。カウンセリングにはクライアントが話す場面と沈黙(またはカウンセラーが言葉を挟む)場面とがサイクルをなしており、それはクライアントの心的緊張と緩和のサイクルを生み出すということを述べました。
本項ではそれをもう少し踏み込んで考察したいと思います。あまり煩雑な記述にならないよう端的に述べようと思います。
(話し終えることを手伝うこと)
もし、沈黙が緊張緩和につながるのであれば、「いかにして話を終えてもらうのか」を考えることは、「いかにして話してもらうのか」を考えるのと同じくらいの重要度を持つことになります。
私も初学者のころはクライアントにいかにして話してもらうかということばかりを考えていました。経験を積むにしたがって、話してもらうことだけではなく、クライアントの話に区切りをつけていくこと、その話を完結させることなどの重要性が見えるようになってきました。
つまり、クライアントに話させようとすることは、前項までの記述に従えば、クライアントにただ緊張だけを強いることになってしまうのでした。初期のころはそこに気が付いていなかったわけであります。
話をすることは心的緊張を高めるのであり、その話が一区切りつくとか、ひと段落つくとか、言い切るとかするまで緊張が持続するものであると思います。そのため、カウンセラーの仕事の一つは、クライアントの話に区切りをつけていくこと、ひと段落つかせること、最後まで言い切らせること、などが含まれてくることになります。そうして、クライアントの話に緩和を設けていかなければならないと私は思うのであります。
クライアントの話しは完結させた方がよいと私は考えているのですが、これはクライアントの言いたいことはすべて発散させた方がいいという意味ではありません。一時間の話し合いがあるとすれば、その一時間を完結させるということであります。もし、終了間際に何か重要な話をクライアントが思い出したとしても、それを残り僅かな時間に取り上げて中途半端な形にするよりは、その話は次回取り上げましょなどと言って、その回を完結していく方がクライアントのためになると私は考えています。
クライアントが一文を言い切ること、話しに区切りをつけていくこと、間合いを作っていくこと、クライアントの話の完結を手伝うこと、こうした仕事がカウンセラーには含まれてくるので、「話を聴くこと」は仕事の一部分にすぎないと私は考えているわけであります。
(話をさせないこと)
でも、話を一区切りつけていくとか、それがそんなに大切なことなのかと問われると、人によってはそれが非常に重要になると私は答えます。
例えば、気分的に躁的になっているといった人では、一つのセンテンスを言い切る前に次の別の話題のセンテンスが始まっていたりするのです。軽い「観念奔逸」が見られるわけでありますが、センテンスを完結させる手伝いをすることによって区切りと緩和をもたらさなければならないということになるわけであります。
逆に抑うつ的になっている人もまた違った意味でセンテンスを言い切ることができない場合があるのです。一つのセンテンスを非常に時間をかけて話されるのであります。話をしながら余計な感情(たとえば、長々と話して申し訳ないとかいった感情)が混入してくるので、弁明や謝罪を挿入しながら、一つのセンテンスに終わりが来ないのであります。そのセンテンスの区切りをつけることを手伝わないと、この人は緊張を維持したままになるのであります。
すでに述べたように、強迫的な傾向のある人は微細なものまで漏らさず話そうとして、場合によっては、何か漏れがあると最初から話しなおしたりするので、却って話にまとまりとかひと段落とかがつかなくなってしまうのです。そこはやはりお手伝いしなければならないところであると私は思うのです。
同じく、すでに述べましたが、不安があまりに強い人はひっきりなしに話す傾向が見られるのです。喋っていないと不安で仕方がないといった感じなのでありますが、結果的に、話せば話すほど緊張を高めてしまっている可能性があり、間合いも入れること、その間合いを落ち着いて体験できるようになることを目指す方が、延々と話をしてもらうよりも望ましいと私は考えています。
幾分「自我漏洩」の見られる人の場合、自動的にしゃべっているという印象を受けるのですが、自発的に話しているのではなく、アタマに思い浮かんだものがそのまま言葉となって流出するかのようであります。そのような傾向の見られる人の場合、時に話を止めさせて「漏洩」を防がなければならないこともあります。そして、本当に重要なことだけを話してもらうなどを検討していかなければならないのであります。いずれにしても、こういう人も緊張と緩和のサイクルが生まれないので、それを生み出す援助をする必要があるわけであります。
自我漏洩の見られる人に関しては、私は水道栓で喩えるのであります。もし、開栓して水をジャッと出しても、閉栓するとキュッと水が止まるという人であれば、栓を開いてもいいのであります。しかしながら、一回栓を開くと閉まらなくなるとか、閉めても完全に締まり切らずポタポタと水落するというのであれば、開く前に閉めることをしなければならなくなります。栓がしっかり閉まるようになってから栓を開かなければならないということになります。もう一つ、これは本項のテーマとは外れるので余談になるのですが、なかなか栓が開かないという場合もあります。これを無理に開栓すると蛇口そのものが壊れてしまうので、少しずつ栓を開かなければならないということになります。
さまざまな人がおられ、さまざまな場面があるので、その都度考えていかなければならなくなるのでありますが、カウンセラーの仕事の一つに、「話を聴ないこと」あるいは「話をさせないこと」も私は含めております。
次項では少しそのテーマに触れたいと思います。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)