6月29日:ヒット曲と実存哲学

6月29日(日):ヒット曲と実存哲学

(母の膝サポーター)
 今日の午前のクライアントが昨日に変更になったおかげで空き時間ができた。母に頼まれていた膝サポーターを買いに行く。
 当然ながら、僕にも両親がある。どの人も人の子なのだ。両親は今の所健在だけれど、高齢だ。親孝行しないといけないなとは思うのだけれど、なかなかできることが限られている。今日のように頼まれた品物を買って帰るくらいだ。
 当てにならん息子を抱えて、親も不甲斐ないだろう。親が嘆こうと、僕はやはりこんな人間でしかない。誇れるような息子ではないなと僕自身そう感じている。

(Let It Go)
 買い物をしていると、店内で「Let It Go」という曲がかかっていた。流行っているらしい。最近、至る所で耳にする。聞いていると耳から血が出るような曲だ。ちっともいいとは思わない。騒音のような音楽だ。
 響きが心地よいだけの言葉がかすめ過ぎるだけで、何も残らない曲だな。あれで感動するなんていう人は、よほど自分がしっかりしていない人なんだろう。
 ヒット曲の歌詞はその時代の何かを反映しているとして、そういう研究をしている学者さんもいる。その人に言わせると、ヒットする曲の歌詞にはその時代の人々の願望が表されているそうだ。それも手の届かないほど遠い願望ではなくて、手が届きそうで届かないような願望であることが条件らしい。ずいぶん微妙なラインの願望を歌にしないとヒットしないのだなと思う。

(「皆の衆」)
 子供の頃、「皆の衆」という曲が流行っていた。万博のころだ。僕もよく歌っていたらしい。「みなの衆~、みなの衆」といって歌っていたそうだ。なんとなく覚えている。
 大人になって、あの曲をもう一度耳にする機会があった。僕は出だしの「みなのしゅう~」の部分しか知らなかったけれど、それに続く歌詞を聞いて驚いた。歌詞は、「みなの衆、みなの衆」という呼びかけに続いて、「楽しかったら腹から笑え、悲しければ泣けばいい」とつながる。楽しかったら笑え、悲しければ泣けばいいなんて、今から見ると、なんだ当たり前のことじゃないかと思うのだけれど、当時の日本人はそれができそうでできなかったんだなと改めて知った。
 それにしても「楽しかったら腹から笑え、悲しければ泣けばいい」っていうのと「ありの~ままに~」っていうのと、それほど違いはないような気もする。日本の社会も人間もそれほど進歩していないのかもしれない。まあ、前者が感情の表出に重点を置いていて、後者はもっと存在のレベルのことを言っているという差異はあるけれど。

(実存哲学)
 もし、自己の存在が叶えられそうで叶わない願望だとすれば、今こそ実存哲学が復活してもよさそうなものだ。
 数年前、サルトルの「存在と無」が文庫化され、今、ハイデガーの「存在と時間」が岩波文庫で新訳されているのを見ると、案外実存哲学は必要とされているのかもしれないとも思う。
 サルトルは、僕の好きな哲学者の一人だ。ある哲学者に言わせると、サルトルの思想は健全ではないらしいが、一方である精神科医はサルトル哲学は精神病者の世界に関して優れた洞察を含んでいると評価している。どちらも正しい。
 一番肝心な点は、サルトルの思想が受け入れられた時代にある。第二次大戦時、パリはドイツによって陥落した。パリの人々の生活に普通にドイツ軍が出入りするようになった。一部の人たちはドイツ軍に抵抗活動を起こした。要は、映画「パリは燃えているか」の状況なのだ。
 その状況においてサルトルの思想は人々に受け入れられたのだ。敵軍の支配下に置かれ、苦しい状況に置かれている人々によってその思想が受けいれられているわけだ。その思想がどれだけ苦難にあえぐ人たちを勇気づけただろうかと僕は思う。案外、この辺りのことが忘れられているような気がする。
 あかん、サルトルを読みたくなった。

(暴れる男)
 昨夜、ちょっとした約束があって、ある人と飲みに行った。その帰り、阪急の駅前で暴れている男がいた。僕ははっきり見たわけではないけれど、喚きながら自転車を蹴飛ばしたりしていたそうだ。脱法ハーブでも吸ってんじゃねえかと僕は思った。
 それに関して、事故が起きたんだってね。脱法ハーブを吸って、自動車事故を起こし、怪我人と死者が出たという。そして、そういう事故がこれまでにいくつも起きているそうだ。なんともひどい話だ。普通に歩道を歩いていて事故に巻き込まれてしまうのだから。
 僕は疑問に思うことが一つある。脱法ハーブを常用している人は夢を見るかという疑問だ。ここで言う夢とは寝ている間に見る夢のことだ。僕たちは夢を見る。夢を夢として見ているから、この現実が認識できるのだ。もし、夢を見なかったら、現実を認識する補助手段として、人は夢に近いものを求めるのではないかと思う。それは白昼夢のようなものかもしれないし、そのためには幻覚や幻想でさえもが求められるのではないだろうか。一度、常用者に訊いてみたい気もする。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 連想のままに綴っている。ある一つのことを話し、そこから連想が広がって次の話に移る。これは心が動いているということである。このことを疎かにしている人も多い。
(平成29年1月)

 

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