5月20日:闘病記―11

5月20日(火):闘病記―11

 今日は定休日だけれど、昼から高槻に出て、夕方は面接を一件こなす。面接後は、電話を一本かける用事を済まして、喫茶店に籠る。原稿を書いて過ごす。このブログもそこで書いている。時刻は23時を回った。
 飲酒欲求が強まっているので、こうして自分自身を隔離しているのだ。タバコの本数も今日は多い。
 食事制限をしているので、しょっちゅう腹が減る。空腹になると飲酒欲求が高まる。しかし、酒は飲めないし、間食もできないので、タバコで空腹感をごまかす。空腹で夜が眠れないという日もある。その翌日は当然眠たい。眠たいからコーヒーとタバコの量が増える。ひどい連鎖反応だ。
 一つを変えることは全体を変えることだと改めて認識する次第だ。人間の行為や習慣はそれだけで独立しているものではない。必ず他の行為や習慣と関連し合っているものだ。一つだけ良くするなんてことは僕たちにはできないことではないかと、そう痛感している。今は一つのことに取り掛かっていても、いずれ必ず全体に取り掛かることになるものだと思う。
 そのうち、タバコやコーヒーのことにも僕は取り掛かることになるだろうと思う。

 今まで、心身に悪いことをいっぱいしてきたなと反省する。どこかで自分を蔑ろにしていたのだと思う。一昔前に比べると、今はかなりましになっている。とは言え、昔の名残も多少は残っている。
 最近思うのは、自己破壊的な行為と成熟拒否は深い関係があるかもしれないなということだ。自分を毀損するようなことをして、それでいて誰かに面倒見てもらえるとか助けてもらえるということをどこかで期待しているのかもしれない。もしそうなら、その人は大人になることを拒否しているということにならないだろうか。無力な幼児のように人の助けを求めているということではないだろうか。
 僕もまた、今以上に成熟していかなければならないと感じている。成熟することを恐れず、拒否しないようにしたいし、それをしている瞬間に気づくということも大切だと思う。

 飲酒欲求もいつしか影を潜めたようだ。書いているうちに薄れていった感じだ。今日もどうにか無事に一日を終えることができそうだ。断酒も今日で12日達成か。けっこうたいへんな日もあったが、どうにかこうにか続いているのはいいことだ。

 今朝、タバコと週刊誌を買いに近所のコンビニに入った。そこは酒も売っていて、僕は思わず見てしまった。1000円も出せばウィスキーの一本も買えるのだけど、それでも高価だと感じた。飲んでなくなるだけの代物だ。それと引き換えに一時的な酩酊が得られるというだけのことだ。酩酊から覚めると、もうその酒は過去のものだ。どこにもない。虚しいものを求めていたんだなと思う。
 先週のアンドレ・ジッドの本のように、100円でいい本と巡り合えることだってあるのだから、そう考えると、たとえ1000円でもすごく高価だ。本は残るし、その本から得たものも僕の中に残る。残らないのは酒だけか。
 それを言ったら、タバコだって何にも残らないな。灰になるだけだ。タバコのことも少しは考えないといけないな。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 酒もそうだし、タバコもそうだ。僕はやらないけど、ギャンブルとかもそうだ。依存対象は人格化される。酒と付き合うとか、パチンコに戦いを挑むとか、そうした表現は対象を人格化していることになる。酒もタバコも一人の相手なのだ。僕は対人関係で何をしようとしているのかが、そこから窺われる。
(平成29年1月)

 

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