5月15日(木):闘病記―7
今日を終えたら、一週間の経過となるのか。早いものだ。
今、お昼だが、適度な空腹感がある。もう少し後で昼食(サラダとカップの春雨)を採ろうと思う。
今日も酒は飲まない。今から決めている。
酒を飲んでいるとトイレが近くなるという人もあろうかと思う。僕はそれほどでもなかったけれど。でも、それは飲んでいる間だけのこと。翌日は必ずトイレに行かなくなる。
肝臓がアルコールを分解する時に水分をかなり消耗するのだそうだ。だから飲んだ翌日は喉が渇いているわけだ。僕も何度も経験している。目覚めはカラカラに乾いていて、取り急ぎ、コップ一杯の水を体に流し込む。「琵琶湖の水、めっちゃ美味いな」と実感する瞬間だ。
翌朝の一杯の水を堪能するまでが酒の楽しみだと豪語した強者の酒飲みも知っているが、ああはなりたくない。でも、気持ちは分かる。あの時の一杯の水のなんと美味しいことか。
しかしながら、体は水分が欠乏している状態なのだ。いくら水分補給したところで、それはなかなか尿として出ていかないのだ。いわば、砂漠に水を撒いているようなもので、いくら水分補給しても追いつかないのだ。そうして、水を飲んでも飲んでも、要らんもんが出ていかず、それらが体の中に残り続けていくことになるわけだ。
酒飲みがツーになりやすいというのも理由のあることだ。
今日、午前中、4回トイレに駆け込んだ。4回ともしっかりと放尿する。この一週間で最高記録だ。
まず、尿意を催す。我慢せず速やかにトイレに入る。パンツからアレを出し、放水が始まる。その様を見て、「ジンちゃん、やったね。いい仕事したね」と言いたくなる。ジンちゃんとは、たかじんさんのことではない。僕の腎臓のことだ。一生付き合う器官だから仲良くしておこうと思っている。放水が終わり、今度はアレをパンツに仕舞う。密かに、「ジンちゃん、次もまた頼むよ」と、心の中で、語りかける。
アホだと思われそうだが、今の僕にとっては、そうして尿が出るということがとても嬉しいのだ。安心するのだ。それは腎臓がきちんと働いてくれていることの証拠だからだ。
23時半。先ほど帰宅。当初の予定では、今日はすごく暇な一日だったのに、蓋を開けてみればけっこうな忙しさだった。まあ、それもいいことだ。
昨日、着手した「お小夜悲願」、読み終える。筋の組み立てが巧みで、展開も速く、飽きさせない。いい本と巡り合えた。
今日も一日、酒に手を出すことなく、無事に終える。好きなものを控えるというのは、本当に辛いね。止めるのはいいけれど、それに代わるもの、それの埋め合わせをするものがないということの方が辛いと思うようになっている。
24時になった。たまらなく眠い。それに頭も痛い。もう2時間ほど原稿を書いて過ごそうかと思っていたが、今日はここまでにしよう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
仕事を始めると、いろんなことに追われ、さまざまなものを背負わなければならなくなる。心身のどこかが悲鳴を上げたとしても、なんらおかしなことではない。それをおかしいこと、あってはならないことだなどと思うと、余計にこの事態が受け入れられなくなるものだ。
(平成29年1月)