3月6日(日):「駅で合流する夢」
今日も夢を見た。例の如く記録に残しておく。
(夢)「駅で合流する夢」
そこに至るまでにどういういきさつがあったのかあまり覚えていないのだけれど、僕はどこかへ行くことになっていた。
家を出て、駅に入る。停車中の車両に兄が座っているのが見える。兄は僕を待っているらしい。兄とは時間をずらしたはずなのに兄の方が待っているようだ。どうすべきか分からないので、僕は一旦待合室へ入る。そこからでも兄の姿が見える。
待合室で待っていると、今度は父が入ってくる。父と電車が重ならないように僕は先に家を出たのだけれど、一緒になってしまった。なんとなく気まずい感じがした。
目が覚めた時、これがどこかへ旅立つ夢だったらよかったのにという残念な思いを抱いた。今振り返ってもそうである。
なぜ、兄が待ち、父が後からやってきたのだろうか。それも僕が出発するのを妨げるような形で登場するのだろうか。いや、実際は彼らは妨害していないのであるが、僕の感じている気まずさのために僕が妨害のように感じているだけである。
彼らは出発を妨げているのか、それとも出発する前に彼らと面と向かえということなのか、僕にはなんとも分からない。
十代のころ、兄は目標だった。あらゆることで兄を追い越すことしか考えていなかった。それが間違いであったことは僕も認識している。正しい生き方をしてこなかった。それだけに十代を失ったという感覚が僕の中にある。それに引き続く20代もやはりそうだったかもしれない。
父は、兄と比較すれば、僕の中では兄よりも存在が薄い。だから後から登場したのかもしれない。ただ、僕は彼らとは違った人生を送りたい。芸術家や哲学者のような人生を送りたいと願っているのだが、そのような生き方は父と兄には理解できない生き方である。
ところで、これこそ簡易アイデンティティではないかという気がしている。彼らの反動によって身につけただけのアイデンティティではないか、それが自分には似合わないものになっているということであるのかもしれない。前回の夢で「簡易帽子」として象徴的に示された場面はそういうことなのかもしれない。
前回の夢では、集団に対して僕は関りを持たなかった。今回は父と兄に対して関りを持たなかった。夢では同じテーマが繰り返されていることになる。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)