<#007-16>臨床日誌~自己否定 

 

 何かを否定する時には他の何かが肯定されており、何かが肯定される時は他の何かが否定されているものである。いずれの場合にしろ、表に現れないその「他の何か」は主体には意識されていないことがほとんどであるが、否定は肯定を含み、肯定は否定を含むのであれば、肯定と否定という二分は成立しなくなる。 

 しばしば自己否定とか自己肯定とかいう言葉を使う。僕はこういう言葉をほとんど使用しない。上述のように一方は他方を含むという性質のために、両者を明確に区別することができないからである。そのため、自己否定感情を連発しているクライアントがウンザリするほどの自己肯定感情を発揮しているなんてこともあるわけだ。 

 矛盾するように聞こえると思うが、それでも自己肯定と自己否定はあるのである。それは形式として現れるものである。 

 例えば、「私はダメな人間である」と「私は素晴らしい人間である」という二つの発言があるとすれば、大抵の人は前者は自己否定文であり、後者は自己肯定文であると評価すると思う。実際はどちらも自己否定の文章なのである。 

 「~である」という断定が否定になるのである。あらゆる断定文は常に否定文であると言ってもよいのだ。私が「ダメな人間」であろうと、「素晴らしい人間」であろうと、そのように断定することは私に属する他のあらゆる可能性を否定していることになるのである。従って、これは自己否定の文章なのだ。もう少し正確に言えば、自己否定を多分に含む文章なのである。 

 「私はダメな人間である」を自己肯定文に訂正すると次のようになる。「私は、その時、自分がダメな人間であるかのように感じた」である。「その時」と時と場所を限定することによって、それが私の一時点での体験であることを示しており、それ以外の体験の可能性を残していることになる。同じく、「であるかのように感じた」ということで、他の感じ方の可能性も残しているのである。言外のことを何一つ否定していないのである。 

 「である」と断定することによって、ある一時点の自己が永続的自己にまで拡張されてしまい、その他の自己、その他の時点における自己は一切否定されてしまう。また、「である」と断定することによって、それ以外の可能性を否定することになる。断定文そのものは否定文の形を取っていないし、内容も必ずしも否定的なことばかりではないにしても、やはりそれは否定なのだ。 

 

 もう少し違った表現もできる。「私はAである」という断定はA以外の私はすべて除外され、否定されているわけである。「Aである」ということで、「Aでもあり、Bでもあり、Cでもある」といった在り方が不可になってしまうのである。あの時の私も私であり、この時このように感じた私も私であり、その時そのように行為した私も私であり、私が経験した事柄、遭遇した場面すべてにおいて私が認識されている。これが自己肯定であり、自己受容ではないだろうか。 

 

 では、なぜ一部の人たちは頻繁に「私は~である」というふうに自己を断定的に言うのであろうか。これは簡単なことである。自分を簡略化したいという欲求なのである。断定して、自己を制限した方が、より自分がハッキリするというように体験されているのであると思う。「私はAである」と断定した方が、私が明確に輪郭づけられるのであり、自己不確実感に悩む人の助けになるかもしれないのだけど、その代わり、その断定から漏れた自己は「闇」に送り込まれることになり、自己不安をもたらす元になるのではないかと僕は考える。つまり、断定から漏れる「私」は、私でありながら、私の理解や意識の及ばない私となるということである。そのため、私の中にある姿の見せない私が私に不安をもたらすのである。 

 

 自分自身に対して断定をするということは自己否定なのである。同じように、他者に対して断定することは他者否定なのである。「あなたは~である」という表現はすべて他者否定である。 

 ロジャース並びにロジャース派のカウンセリングを日本語で勉強する際に、そこはものすごく重要になる。しばしば、日本語訳で「~ですね」みたいな形で半断定的な表現が普通になされている。 

 僕が思うに、ロジャースのカウンセリングは日本語に訳しにくいのだ。クライアントが「私はAなんです」と断定しても、ロジャースは「A?」とだけ応じることもあれば、「あなたがAであると言ったのを私は聴いた」と自分の体験で応じることもあれば、「あなたは自分がAであると感じていると私は仮定・推測する(I supposeとかI guessなど)」という形で応じていることもある。クライアントに対していかなる断定文も使わないように意識しているのではないかと僕は思う。日本語訳では、そこが上手く訳せないのだと思う。直訳すると、おそらく不自然な文章になってしまうのだろうと思う。 

 また、僕は人は褒められて伸びるとは信じていないのだけれど、その理由はその褒め言葉がしばしば断定文でなされることが多いと思うからである。ある人に「君はよくできる」と褒めたとしよう。その人はそれ以外の自分であることが許されなくなる。せめて「君はよくできると僕は思う」とか「そのように僕には見えている」とか言わなければならない。相手のこととして言うと断定になるので、僕のこととして言わなければならないのだ。相手からすると、あの人にはそう見えているだけだということになり、それ以外の自分という可能性を締め出す必要はなくなるのである。 

 

 さて、とりとめもなく綴っているな。どうも上手く言えている感じがしないのだけれど、今日はもうこれで良しとしておこう。さすがに疲れてきた。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

PAGE TOP