2月27日:「交通整理する夢」

2月27日(日):「交通整理する夢」

 

 今日も夢を見た。いいことだ。さっそく記録に残しておこう。

 

(夢)「交通整理する夢」

 どういういきさつがあってそうなったのかは不明だけれど、僕は交通量の多い交差点で交通整理をしていた。ホイッスルを吹き、旗を振って、赤信号側には「止まれ」と合図し、青信号側には「進め」と指示する。歩行者の時は各方向の自動車に「待て」と合図する。最初は交差点の中央に立って、車の流れを整理していたように思う。

 歩道に子供たち、小学生くらいの児童が一斉に流れてきた。遠足でも行くのだろうか、子供が長蛇の列を作って道路を渡ろうとする。車を流し、歩行者の番になると、僕は子供たちの側に行き、早くわたるように合図し、自動車には「待て」を合図する。青信号が点滅すると、子供たちを制して、自動車を流す。子供が飛び出さないかとやたらと心配になる。見ると、まだまだ子供の列が続いている。終わりが見えない感じだ。引率の先生とか大人がなんでいないんだ、と僕は腹立たしく思った。

 

 先日見た光景を即座に思い出した。このブログでも書いたけど、コンビニに寄った時のことだ。交差点で信号待ちしていた車が、青信号に代わった途端に猛スピードで発車して、あんなに飛ばすと危ないじゃないかと僕が思ったという、あの光景だ。

 ただ、夢では、自動車ではなく、児童たちだ。子供たちが飛び出さないかと心配していた。猛ダッシュする自動車にしろ、飛び出す子供にしろ、そこには衝動的な感情を僕は見る思いがする。この衝動性は児童心性に属するものだと思う。子供が飛び出さないかと心配になっているとは、僕が僕の衝動性を発揮してしまわないかと心配していることに通じる。

 夢ではそれの制御がどうにかできていることを示している。実際、心配はしていたものの、何も起きなかったようだ。自動車も歩行者も、事故もなく、信号無視もなく。猛突進もなかった。

 交差点の中央というのは、これも曼荼羅の中心と重なるイメージである。つまり、自己の領域である。銃撃戦の夢では、この中心部分で戦闘を繰り広げていたけれど、この夢ではより安全な形で制御しているという印象を受けている。ただ、子供たちが登場することによって、僕は中央から離れ、子供たちの側に近づいている。子供から衝動性を連想しているのだから、これは僕が衝動性に近づいているということでもあるのかもしれない。

 いや、ホントである。昨日は具合が悪かったし、いっそのこと休みたかった。その他の日であっても、すべてを投げ出して遁走したい衝動に駆られることもある。僕は今のところ、それを制御しているのである。僕は、この夢に即して言えば、交差点の中央から離れてはいけないのだ。子供たちの誘導も、子供たちの傍に行ってするのではなく、その地点からしなければならなかったのだろう。結局、衝動が意識を占め、それに近づいているのだ。

 常に自分を自己の中心に置かなければならない。昨日の夢は、もはやずり落ちるに任せている状態になっていたけれど、それではいけないのだ。もっとも、昨日の夢は具合が悪かったことも関与しているとは思うのだけれど。ちなみに、今はいつも通りの体調である。具合の悪かったのも、昨日の半日くらいの間だけのことだった。

 こんなふうに考えていくと、昨日の夢も腑に落ちる。昨日の夢に出てきた監督官、僕は彼を取り入れなければならないのだ。間違ったものを取り入れてしまっているので、体が動かなくなる(これは死であり、何もできない幼児への退行でもある)のだ。今回の夢は、その観点から言えば、一つ前進しているという印象も受ける。監督官の役割を交通整理員の形で取っているとも言えそうである。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

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