<#007-15>臨床日誌~オンとオフ
今日から8月だ。最近はこのブログでもコロナや五輪の文句ばっかり書いている気がする。もっとも、それを止めるつもりもないし、これからも何か思うところのものがあれば書いていくつもりだ。それでも一応、カウンセラーのブログなのでそれらしい内容のことも書かなければいかんなあとも思っている。
しばらく怠っていたけれど、臨床日誌シリーズも書いていこうかと思う。
(注:この頃はブログにて臨床日誌を展開していました)
今日はオンとオフの話をしよう。どの人もお勤めがある。社会人の場合、それは仕事ということであり、あるいは家事や育児ということもある。学生の場合だったら学業ということになろうか。その人にとって「本職」とか「本業」に該当することをしている時を「オン」の状態と言おう。
オン以外の時間はすべて「オフ」ということになる。オフにおける活動は、例えば趣味や娯楽であったり、その他の課外活動なども含めることができるだろうか。もちろん休養もオフにおける活動である。休養が活動というのは奇妙に聞こえるかもしれないけれど、そのようにここでは捉えておこう。
人はそれぞれその人の生活においてオンとオフとがある。オンとオフはサイクルを描くようにして反復されるものである。そのサイクルが一日に一回の人もあれば、一日に二回サイクルがあるという人もあるだろう。それはその人の生活様式によって異なるところである。
一日に何サイクルあろうとそれは構わないのだけれど、要はそのサイクルがきちんとできているかどうかが問題になる。
と言うのは、心の「不健康」な人ほどこのサイクルが曖昧になる。オンしかなかったり、オフしかなかったりすることもある。また、オンがオフに侵入してきたり、オフがオンに割り込んできたりすることもある。オンとオフが明確にならなくなる。
心の健康な人というのは、オンとオフがきっちりしており、両者がきちんとしたサイクルを描くように積み重なっていくと僕は思っている。オンはオフを活かし、オフがオンの活力源になったりして、両者は相乗していく。それでいて両者はしっかり区別されている。このように僕は思う。
大抵のクライアントは「オン」の部分で支障を覚える。家庭内の問題で、一見すると「オフ」の領域における問題であっても、最初の引き金になっているのは「オン」の領域であることも稀ではない。
しばしば、余暇(オフ)をどう過ごしていいか分からないと訴える人もあるが、この人たちはオンの部分が上手くいっていないのである。オンがオンとして成立していなかったりするので、オフが成立しないのだ。例えば、その人がオフをどう過ごしているかと言えば、仕事(オン)のことばかり気にしているとかいうことがあるわけで、その人がオンのことばかり気にしているのは、オンの部分が上手くいっていないからである。
時に、ビジネスマンのクライアントはオンが上手くいくようになることだけを願う。それはそれで結構なのだけれど、この人の中にはオフを充実させようという発想が欠けていたりする。だから、仕事で成功すれば自動的に夫婦生活やプライベートも上手く行くといった発想をしておられたりする。その思考にはオフに関するものが欠落しているのだ。
会社の経営者とかになると、特に難しい状況に差し掛かっているような場合では、オフが失われることがある。その人の地位や置かれている状況によって一時的にオンとオフが成立しなくなることはあり得ることであるとは思う。しかし、そのような経営者も普段ではオンとオフが明確であり、この状況を脱すれば再びオフを生きられるようになるとすれば、それはそれでいいと僕は考えている。
人はオンの領域だけでは生きてけないものである。オフも充実させないといけない。
時に、退職した人なんかに見られることであるが、オフでやってきたことが第二の人生の主軸になることが多い。オフを持ってこなかった人は、退職後に自分が空っぽになってしまうわけだ。その人たち(僕はずいぶんそういう人たちを知っている)は、例えば、昼間から呑み屋に出没して、かつての肩書のままでいようとしたり(上役は呑み客どうしの間でも上役をするなど)、かつての武勇伝を誇らしげに語る(まともに聞いてくれる人はいないのだけど)などして昔年を懐かしんで過ごす。確かにその人たちは現役時代は優秀だっただろうと思うのだけれど、オンしか生きてこなかったのではないかと思う。だからオンがなくなると腑抜けのようになってしまうわけだ。
オンとオフのサイクルは、そのまま生のサイクルだと言えると思う。活動して休息する。昼があって夜があるように、それが生命のサイクルではないかと思うのだ。そのサイクルを自ら壊してしまう人たちがいるわけであり、その人たちのことを僕は危惧している。
自ら壊さないとしても、テレワークはオンとオフを曖昧化する作用があるかもしれないと、僕は思うようになっている。クライアントの中には今はテレワークで仕事をやっているという人も少なからずおられる。この人たちの話を聞いていると、特にオフが成立しなくなっているという感じを受ける。オンがオンとして成立しづらいのでオフが不明瞭になってしまっているという印象を受けている。オンの場所(生活空間)が同時にオフの場所にもなるからで、それだけが要因とは言わないけれど、一つの要因としてあるようにも思う。
テレワークは、企業的には利益があるかもしれないが、心理・精神的には不利益も多いと僕は思っている。
いわゆる「FIRE」と称される人たちがいる。若いうちに現役から退いて、好きなことをして生活するという人たちだ。多様な生き方が認められなければならないので、僕は一応そういう生き方もありだと思うようにしている。その人たちの生き方というのは、定年退職してからの生き方であると僕は思うのだけれど、そのように考えると、FIREはもう後が無いという気がしないでもない。その次の生き方がどうなるのか分からない感じがするのだ。それが悪いとは言わないけれど、なんだか危なっかしい生き方であるようにも思える。
それはさておき、「FIRE」の人たちの中にはオフだけで生きようとしている人がいるんじゃないかと心配になる。オンの領域をしっかり残しておき、尚且つ、オンの領域も充実させていないと「FIRE」という生き方はちょっと恐ろしい気がしている。
さて、思うまま綴って、なんだかとりとめのない中身になってしまったような気がするけど、まあ、よしとしよう。ほどほどのところで妥協できるというのも、オフのためには必要であるかもしれない(と言い訳して今日は終わり)。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)