#005-6>病の二相(5)~アイデンティティ 

 

(病気がアイデンティティになること) 

 病の体験には二つの相があり、両者を区別できることは非常に重要なことであると私は考えています。これを理解できないという人は「病との同一視」を起こしているようであると私は見立てています。「病との同一視」ということがなぜ生じるのか、前項に引き続いて考察したいと思います。 

 確かに、困難で辛苦に満ちた経験などをしてしまうと、人はそのことを悩み、考えたりするようになるでしょう。何かおかしな体験をしてしまったということで、どうしてもそこに意識が集中してしまい、ある意味ではそれに囚われてしまうという状況に陥ることもあると思います。 

 彼の意識はその一点に集中されることになります。レンズを絞るように、それは意識野を狭窄させているということになるわけですが、その一点に意識は焦点化されていき、そうして彼の意識の全体をそれが占めてしまうということが起きて、ここから同一視が始まると私は考えています。 

 しかし、ここからその同一視から脱却していく人もあれば、それをあたかも自分のアイデンティティのようにしてしまう人もあると私は考えています。つまり、その同一視が完成するためには、それが意識の全体を占めるだけではなく、他の要素がそこに入らなければならないと私は思います。それがその人のアイデンティティ感覚であると私は想定しています。 

 アイデンティティとは、私の考えるところでは、「私は〇〇である」という文章の、「私は○○」の部分よりも、「である」により関係する概念であります。その際に、主体によって意識されている自己がその形成の基礎になることが常であります。私によって意識されている私が私のアイデンティティになっていくということであります。もし意識されているものが「病気」であれば、その「病気」がその人のアイデンティティとして取り入れられていくことになると思います。 

 こうして、「病気」というものがその人のアイデンティティに取って代わられていくか、あるいは、もともとアイデンティティ感覚が曖昧であった主体に「病気」がその曖昧な部分を埋め合わせていくのだと私は考えています。 

 「病気」がその人のアイデンティティになっているというような人もおられるのです。例えば、初回面接で開口一番に「私は○○病なんです」と言うクライアントがあります。「私に○○病があるようだ」とか「○○病と診断されました」とか「○○病ではないかと思います」などとは言わずに、「私は人間です」と同じような調子で「私は○○病です」などと言うのであります。当然、いきなりそれだけ言われても私には訳が分からないので、「どういうことでしょうか」などと尋ねます。続けて詳しく経緯を語り始める人もあれば、それ以上何を言うことがあるのかと困惑されるような人もおられます。後者のように答えられないという人は、もはや自分がないと言えるでしょうか。その病名はその人自身であり、病名を伝えれば自分の全てを伝え終わったと等しくなっているのでしょうか。どうもそういう印象を受けてしまうことがあります。 

 同じように、「私、病んでるんです」とか「メンタルが弱いんです」などと言う人たちもいます。あたかもそれが自分のアイデンティティであり、自分の全部であるかのようであります。病んでいるのは一部であるでしょうし、弱い部分も、もしそれがあるとすれば、一部に過ぎないでしょう。それが私の全体であるかのよう話されるのを聞くと、その人はその一部に同一視してしまっているように私には感じられてくるのであります。 

 

(病気は手放せない) 

 もし、「病気」が自分のアイデンティティになっていたり、自分のアイデンティティを確固としてくれているとすれば、その「病気」が除去されることは、そのまま自己の消滅を意味してしまうことになります。その病気が自分であるので、その病気が治癒したりして消去されることは、自分がなくなることに等しくなってくるわけであります。そうなると、病気をアイデンティティにしてしまっている人たちは病気を手放すわけにはいかないという事態に陥ることになります。 

 このような人にとっては、治療は脅威と映るでしょう。彼は病気であることによって自分があると体験しているのだから、病気が治ることは自分を無化すること、何者でもなくなることしか意味しないのであります。病気が苦しくとも、自分がなくなるよりかはましであると感じられることもあるかもしれません。ただし、このような体験は現実に治療を経験するまでは当人には思いもよらないものであるかもしれません。 

 ある母親は治療を中断した娘のことを話します。その当時、娘は治療を求めており、医師とも良好な関係を築き、服薬もきちんとし、順調に治療が進展していたのでしたが、急に治療を中断してしまったといいます。症状の軽快に合せて、娘は「私、何やったん?」とか「私、何やってたんだろ?」といったことをしきりに母親に問いかけるようになったのでした。その後、治療の中断へと至ったのですが、私が受けている印象では(というのは私はこの娘さんにお会いしていないからでありますが)、症状が軽快し消去していくにつれて、娘さんは自分が空虚であることを見てしまうようになったのではないかと考えています。これはその病気をアイデンティティとしていたことを思わせるのであります。それが消失しつつあるので、娘さんはアイデンティティ拡散状態を経験するようになったのだと思います。 

 以後、治療は死ぬほど苦しいことで二度と受けたくないと、この娘さんはいかなる治療も拒むようになり、ずっとひきこもり状態で生活しているのでした。困り切った母親が私を頼って来られたのですが、この娘さんに対してできることはありませんでした。苦しいのは治療ではなく、アイデンティティがないというところにあるはずなのですが、娘さんにそのことを理解してもらえるか疑問でありました。 

 治療をどうしても受けたがらないという人の中には、この娘さんのような人もおられるものと私は思います。そういう人にとって、治療者はすべて攻撃的な人間に見えるのではないかと思います。彼からすれば治療者は、私から私自身を奪おうとし、私を抹消しようとする迫害者であるかのように感じられるかもしれません。また、周囲の人が「治療的」な働きかけをしようものなら激しく抵抗することもあるように私は思います。自分がなくなってしまうのなら、病気を手放さない方が安全であると彼らには感じられているのかもしれません。 

 

(「治療」が二段階であること) 

 このような例を見れば、治療がなぜ二段階で理解されている方が望ましいかが分かるかと思います。病気が除去されたら自分がなくなるというのであれば、病気が除去される前に自分を形成しなければならないということになるからであります。病気が除去されても後に残る自分がなければならず、それは治療に先立って、あるいはせめて同時進行で形成されなければならないことになるからであります。 

 このような人が本当に治療関係に入れるようになる時(これは治療の開始時とは限りません)、この人は「病人であること」を止め始めたと感じることが私にはあるのです。外見上は変化はないのですが、その人の「感じ」が少し以前と変わってきたように感じられるのです。そういう時、病気以外の何かがこの人の中で形成されてきたのだと私は思うのです。この人は本当に病気を捨てる覚悟ができているなと、そのように感じることもあります。何らかの自己形成がそこでできていることを伺わせるのです。先に自己形成がなければならないのであります。そこを飛ばしたり、その観点を欠いていることは非常に危険なことであると私は考えています。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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