<#009-6>AC者に至るまで(3)
(救済としての側面)
AC者はAC理論と遭遇して、自らACに適合させていくと私は考えています。彼らは自分からAC者になっていくのであります。
AC理論と遭遇して、彼らはそれを信奉するようになります。それが心の深層に影響を及ぼしているので、簡単にそれを意識から払いのけることができなくなるのだと私は思うのでありますが、その理論が常にその人の心を占めるようになるようであります。
一方で、AC理論が彼らに救いをもたらしているという一面があるということも言えるのであります。なぜ自分が上手くいかないのか、その答えをその理論が与えてくれているからであります。救済の一面もあるので、その理論を手放せなくなるという傾向も生まれるのかもしれません。
しかし、この救済は幻想のようなものであるかもしれません。その人は人生上の困難に遭遇していたのですが、理論はそれを別のものに置き換えているだけであるかもしれません。私はそのように考えています。彼が経験した人生上の困難はそのまま手つかずで放置されることになるのです。人生上のものに取り組まないので、彼らにとってはますます人生が苦しいものになっていくように私は思うのであります。
彼らの努力は、もはや人生上の困難に向けられるのではなく、AC理論が求めるものに向かうようになると私は思うのですが、私はそれは人生とエネルギーの蕩尽でしかないと考えています。
彼らが体験する救済は、結局のところ、問題から目を逸らすことから得られているものであるかもしれず、彼らがつまずいた問題は取り組まれることなく延々と持ち越されてしまうのであります。
(理論の諸影響)
さて、理論と遭遇して、彼らはどうなるのかということもかいつまんで述べておこうと思います。これらは後々取り上げることになるテーマとなのですが、先取りして述べておくことにします。
まず、もっとも頻繁に見られるのが「無力化」であります。不思議なことであります。自分にピッタリあてはまる理論に遭遇して、自分のことが分かったというような体験をして、その結果、無力に陥るのですから。本当の自己理解はその真逆の方向をもたらすものであるはずであります。
この無力は心的退行によるところが大きいと私は考えています。無力になり、幼児のように親に世話を求める人たちもおられるのであります。甘えや依存心が一気に噴出するといった例もあります。
また、これもよく見かけるのでありますが、親に対する敵意がかなり結晶化するのであります。AC信奉歴の浅い人はそれ以前の親への感情のことを覚えていて、そういう人の話に基づくと次のことが言えるのであります。AC理論に遭遇する以前は、親は好きになれないとか、苦手であるとか、あまり関わりたくないとか、そういう「嫌悪」の感情があったのですが、AC理論遭遇後はかなりハッキリとした「敵意」とか「憎悪」の感情へ発展するのであります。
どうしてここまで敵意とか憎悪として感情が過剰に発展してしまうのか、これは重要な問題であると私は考えています。敵意や憎悪に関しては、また別項にて取り上げたいと思います。
さらに、この敵意や憎悪は、抑制される方向ではなく、表出する方向へ向かうのであります。<#009-1>において、攻撃を行動化する子が推奨されているという異常な文章を私たちは見ました。理論の中にそうした行動化が推奨されているのかもしれません。
この行動化は、親を説得するとか、親に謝罪を求めるとかいったものから、かなり直接的な暴力行為に及ぶこともあります。急性精神病様発作が生じた際に暴力をふるうといった例もあります。いずれにしても、この敵意や憎悪は彼らの自我に親和性を帯びていくのだと思います。
それが自我親和的になっていくと、それを抑制しようという働きかけはすべて間違ったものに見えることだろうと思います。そうでなくても、暴力的行為に対する抵抗感が薄れていき、行動化がより容易に現れるようになると私は思います。子供に手を焼いて親が来談する場合、こういう子が多いのであります。
もう一つだけ厄介な傾向を追記しておきますと、AC理論が彼らを攻撃的にすると私は考えているわけですが、彼らがACを捨てると一層攻撃的な人間になることもけっこう見られるように思います。AC者は実に厄介な存在であります。
(防衛機制の破綻)
上記のようなことが起きるというのはどういうことでしょうか。自我には自分を守るという働きがあります。これを自我の防衛機制と精神分析では呼んでいるのでありますが、AC理論はその人の自我防衛を崩しにかかってくるという印象を私は受けるのであります。
これは、誤解のないように申し上げておかなければなりませんが、理論が防衛機制を壊しにかかってくるという側面と、その人の防衛機制が弱まっている状態にあるという側面とが考えられるのです。おそらく、両者が手を携えていることが多いのだろうと私は考えています。
防衛機制の破綻は、その人の人格水準を下げることになると私は考えています。つまり、心的な退行を促進させてしまうことになるわけであります。従って、もう少し詳しく述べるなら、高次の防衛機制が働かなくなり、低次の防衛機制が全面的に現れてくるということであります。防衛機制も退行するわけであり、低次の防衛機制で生きるので人格水準が低下していることになるわけであります。
(終わりに)
さて、人がどのような経緯を経てAC者になるのか、かなり駆け足で述べてきました。いろいろ説明不足なところ、言葉足らずなところもあり、至らない点がいくつも目についてしまうのですが、以後、各々のテーマを取り上げていく予定をしておりますので、大枠だけでも把握していただければ十分であります。
AC者の抱える問題の一つに、彼らはAC遭遇時の衝撃を克服できないというものがあると私は考えています。その時の衝撃とかダメージを克服しようという試みとして彼らの行動を理解することもできると思うのです。いずれそれに関して述べると思うのですが、その前段階としてAC理論遭遇までの経緯を理解しようとの試みでありました。
以後もAC者に関するさまざまなテーマを綴ることにします。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)