4月9日:身体化と鬱

4月9日(水):身体化と鬱

 長い一日だった。昨夜は現場仕事のアルバイトに呼ばれて、行っていた。負債を少しでも早く終わらせるためには、多少の無理をしてでも働かないといけない。そう決めていながら、やはり疲れる時はある。
 昨夜は東大阪の現場だった。父は呼ばれていない。もともと父とつながりのある仕事で、僕が18歳の頃から人手が足りない時は父に連れて行かれた仕事だ。今では父は半分引退状態で、僕だけが呼ばれることが多くなった。
 始発で帰り、7時にどうにか帰宅できた。それから9時まで寝る。そこから起きて高槻に出勤し、夜まで仕事をした。明日はシンポジウムに出てみることにしたので休む。だから木曜日に来られているクライアントには、曜日の変更をお願いしている。そのため、今日は通常の水曜日よりもクライアントの数が多くなった。それも疲労の一因ではある。
 仕事をして疲れるのはいい。寝不足が辛い。面接中、本当に寝てしまいそうになった。体調も芳しくない。いいコンディションでいつも仕事ができたらどれだけいいだろうと思うが、なかなか思うようにはいかないものだ。

 この数日、食欲がない。お腹が空かないのだ。気分も重い。僕の「抑うつ」期にまた入るのかと覚悟している。自分が独りであることを意識すると、気分が落ち込み始める。それでも、僕は独りであること、人間はみな独りであるということを、僕は受け入れていこうと考えている。それを否認することは、人間を理解することに対して目をつむることになると思うから。
 今日もクライアントと面接していて、ふと、この人ともいつかお別れする日がくるんだなということを思ってしまう。僕の逆転移だ。逆転移などというと味気ないけれど、言い換えれば、クライアントたちに情が移るということだ。それにクライアントに魅力が出てくる。
 クライアントが良くなっているか、変わっていっているかの目安の一つがそれだ。まったく僕の個人的な目安なのだけれど、繰り返し来られているクライアントが、ある時、とても魅力的に映るようになる。その人の何かが、前回までとは違っているのだ。その人に魅力を僕は感じるようになる。これはクライアントが男性でも女性でも同じで、何て言うのか、その人の発しているものに違いが生まれてくるのだ。それがその人の新たな魅力のようなものとして僕には感じられる。

 さっさと見切りをつけるクライアントもおられる。最初の数分で僕は品定めされ、不合格だと、僕に対して一切を喋らなくなるか、意味のない多弁をするかだ。僕が不合格だと思われるのはいいけれど、そんなに物事に簡単に見切りをつけて、その人は生きていけるだろうかと僕は心配になる。
 こんな人もある。あまり詳しくは書かないでおこう。その人は、いわば「同調性格」と呼ばれている性格傾向を有していて、将来は「うつ病」に罹る可能性のある人だ。今、その人は体の具合がよろしくないと訴える。自律神経失調症のような症状がいくつも出ている。
 その人に早めに病院に行こうと、僕は勧める。その人はそんな必要はないと言う。ああ、悲しいことに、分かってもらえないのだ。心がどんなふうに人間を守ろうとするかを知らないのだ。
 その人は今は体の不調としてそれを体験している。体の具合が悪いからということで、心の負担が軽減されているということなのだ。もし、身体症状として出せなかったら、その人はもっと自責感情に襲われるようになるだろう。心はその事態を防ごうとする、つまり防衛しようとするものなのだ。身体化という防衛手段なのだ。この防衛が破綻したとき、彼は「うつ病」に罹患する可能性がかなり高くなると僕は考えたのだ。

 今日一日で、それは悲しいことだなと感じたことは他にもいくつかある。でも、今日はもう書かないでおこう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

(付記)
 鬱になる可能性のあるその人はクライアントではない。日常的に関係のある人である。だから、その人にはいつか鬱になるということがなかなか言えないのである。もっとも、僕もいつか分裂病になると言われたこともあるが、案外、そういう予測が外れることだってあるのだ。無理に伝えなくて良かったかもしれない。
(平成28年12月)

 

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