3月8日(土):創造か破壊か
真剣に、自分自身を創造し再生していくことに取り組む。
今、と言うよりも、この半年くらい、バタバタと予定や仕事が立て続けに入って忙しかった。この傾向は今月以降も続くだろう。既に4月も半分くらいは予定で埋まっている。
こうした忙しさは大歓迎なのだけれど、その取り組み方に疑問を覚えている。無理をすることもあるが、それが果たして創造的になされていただろうかという疑問だ。破壊的な取り組み方をしてきたのではないだろうかと、ふと、そう思った。
生きるということは、自己の創造だと思う。心と体をつくり、内と外の世界を作り上げていくことだ。僕たちは誰もが創造の過程にあると僕は信じている。ただ、それが創造だったか破壊だったかということは、おそらく最後の瞬間まで気づかれることがないのだろう。創造的であるつもりが破壊的であったということもある。その渦中においては人は見えないのだ。
昨日、僕はついに折れた。ダウンしたのだ。風邪をひいたこともそれに関係している。でも一日休んで、いろいろ考えることもできた。僕は今までも生きてきたけれど、もう一度生き直す。
3月に入って、僕がバイトしていたコンビニが店を閉めた。店長はなんとか店を立て直そうと、かつてバイトしていた僕に声をかけてくれたのだ。それで一昨年から去年の暮れまで、できる範囲でお手伝いさせてもらっていたのだ。店長には悪いことをしたと思うのだけれど、僕は手を引いた。良くなりそうな見込みがなかったからだ。
それで2月末で閉店ということになった。あの店はきちんと経営すればやっていけるような店だと思うのだが、結果的に閉店になった。ただ、この閉店は今だけの話ではない。これまでの一日一日がそれに向かっていたのだと僕は感じている。毎日、見過ごすくらいのわずかな何かが損なわれ、破壊されていったのだと思う。
今日、面白い論文を読んだ。
「不安と政治的アパシーとの関係について」(クラウス・ホルン)『過剰社会の病理』より
同書収録のミッチャーリッヒの論文を読みたいために古書で購入したのだが、せっかく買ったのだからほかの論文にも目を通してみようと思い、読む。政治的アパシーは社会化されたナルシズムの形態をとる。この社会科されたナルシズムは社会的葛藤の解決の試みとしての技術的傾向の残物であり、同時にその傾向を強める。なかなか面白い指摘だと思った。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
あのコンビニさんも閉店したのだ。僕は先に辞めておいて良かった。最後の瞬間なんか見たくなかっただろう。僕が思うに、一歩一歩、少しずつだが、着実にその結末に向かって行っていたと思う。一度でも、自分たちのやっていることが創造なのか破壊なのかをチェックしてみれば良かっただろうに。
(平成28年12月)