1月17日(金):震災19年
今日は休みだ。アルバイトも辞め、もう金曜日を休む理由はないのだけれど、もうしばらくは金曜日を空けておきたい。いろいろやることがあるからだ。
昨日、図書館で借りた本をコピーする。いくつかの論文は読んだ。その後、職場に出る。明日の準備なんかをしておきたかったからだ。予約が一件入る。来て良かったと思った。
本の整理をしていると、昔購入しておきながら、遂に手を出すことのなかった本を見つけた。波多野完治先生の文章心理学に関する本だ。波多野先生の最晩年の著作だということだ。いつか読もうと思っていながら、すっかり忘れていたのだ。
面白い。ついページをめくってしまったのが運の尽きだ。読み耽ってしまう。本の整理なんてそっちのけで読んでしまう。三分の二ほど一気に読んだ。いつかこのブログにその感想を書こうと思う。
今日は阪神大震災から19年という日だ。あれから19年か。僕はすでにカウンセリングの勉強を始めていた。被災地にカウンセラーとして援助に行こうと誘われたけれど、僕は断った。一緒に勉強していた仲間はカウンセリングの練習も兼ねて行ったそうだけれど、あんまりそういう不純な動機で被災者と会うのは気が引ける。僕にはとてもできそうにないと思った。今でもそれは変わらないな。
不幸なことが人間には本当に多い。多すぎるくらいだ。あるクライアントは僕を茶化して、カウンセラーはいいなと言う。人の不幸が面白いでしょうなどと言う。とんでもない話だ。あくまで傍観者で留まりつづけるなら、他人の不幸も遠くから眺めて愉しかろう。そんな人は他人のその不幸に関わってみたらいい。とても他人事では済まされなくなるから。
あの日、6000人もの人が明日も普通に一日を迎えるだろうと信じていたのだ。きっと、その少し前には、今年一年いい年になるようにと祈願した人たちだ。それだけの数の人に、信じていた明日はもたらされなかったのだ。無情にもその年を越させてもらえなかったのだ。不幸は不意に襲ってくる。生の営みが自分の意図とは無関係に断ち切られることだってあるわけだ。
あの日、僕はたまたま京都の実家に居ただけだ。神戸に住んでいたら、きっと被災していただろう。今は生きていないかもしれない。たまたま助かり、生を続けさせてもらっているだけなのだ。
僕が生活を変えたいと願っているのは、そんな思いとも無関係ではないんだ。僕は自分の人生を最後までまっとうしたい。いつ断ち切られるかも定かではない生だ。だからこそ、最後までしっかり生きたい。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)
(付記)
生を与えられている以上、しっかり生きないといけないなと思う。今もそう思うし、毎日のようにそう思う。なかなか理想通りには生きられないものだ。
(平成28年12月)