12年目コラム(10):人を助けたい(2)

 「カウンセラーになって人を助けたい」という動機は危険である。僕はそう考えているわけであるが、その動機の何がどう危険なのかと言うと、「人を助けたい」は「人を殺したい」の反動形成である場合があるということだ。そして、その実例のような事件も多い。
 援助職に就いている人が、何か事件を起こす。事件を起こす前は、その人は熱心な援助者であったというような例もある。具体的な事件を挙げるわけにもいかないので、興味のある方は銘々で実際の事件記事などを調べてみられるといいでしょう。臨床家や福祉士、看護師、介護士など、人と関わり、援助する仕事に就いている人による犯罪事件など、それほど珍しくもなくなったので、探すとすぐに見つかることでしょう。

 僕の見解では、「人を助けたい」などという動機や願望はわずかにあればいいものである。まったくないというのも考えものだが、適度に、それも少しだけあればそれで良いと思う。危険なのは、この動機や願望が大きすぎること、ないしは、過度にアピールされていることである。そこまでこれを前面に押し出さなくてはいられないということは、それに反するものがその人の中に相当あるということではないだろうか。
 反動形成というのは、精神分析の用語であるが、要するに反対の傾向を打ち出すということである。無意識にあるものと正反対のことを意識領域にもたらすということであり、それによって無意識にあるものを隠蔽しているということだ。無意識の領域は怒りでいっぱいなのに、表面では、意識では慈愛に満ちているなどといった例である。

 こうした反動形成においては、無意識にあるものが切り離されてしまう。意識されているものにしか目が届かなくなる。目が届かなくなればなるほど、切り離されたものは放置され、「飼い慣らされる」ことも監視されることもなく、自由に活動する。この無意識動機の活性化のために内面がざわついたり、焦燥感に駆られたりをこの人は体験するかもしれない。それでもこれに触れることができないので、さらに反動形成を強めなければいられなくなる。こうしてこの反動形成物は必要以上に誇示されることになってしまう。
 この人が少しでも無意識に触れることができれば、自分の中に「人を殺したい」という願望があるということが見えてくるだろう。しかし、「人を助けたい」という反動形成物しか見えていない限り、この無意識の願望に気づくことはない。そして、この無意識の願望は、それに関わることがなく放置されるので、ますます個人の中で威力を増す。気づいた時には、それは制御できないほど大きくなり、取り扱うにはあまりにも危険なものになってしまっていて、もはやどうすることもできず、行動で放出されることになる。それが現実の事件として結実化するのだ。

 援助職による犯罪のすべてではないにしろ、上記のような事態によって生じる事件も少なくないだろうと僕は考えている。
 「人を殺したい」という動機は、特殊なものではない。おそらく、大部分の人の中にこれがあるはずである。本当は「すべての人に」と言いたいところなのだが、ごく少数の人にだけはこの動機が存在しないと思う。この動機を本当に昇華できた少数例である。
 この動機は昇華することも克服することも可能ではあるが、かなり困難な作業となる。ある程度のことはできても、それで十分であるように思われ、それ以上に昇華していくことを断念してしまう。それ以上の作業には困難が予想されるからでもある。
 僕たちはすべて乳幼児期を過ごしている。この時期に、人は憎悪も経験してしまう。乳幼児の状況をよく考えてみよう。乳幼児の彼は自分の意志を伝達する言葉をまだ有していない。親と取り引きしようにもその手段がない。自分が生きるためには周囲に気づいてもらうしかない。生きるも死ぬも、自分で決めることはできず、周囲に依存している。力や能力においても、周囲の大人たちに比して、はるかに劣り、無力を経験する。
 この時期に、憎悪の原型がもたらされる。これのもたらされない人はいないと僕は考えている。むしろ、まったくこれがもたらされないというような例の方が危険であるかもしれない。
 僕たちは多少なりとも憎悪感情を有している。僕たちの中にそれが在るから、愛の重要性が認識できるのだ。最初から憎悪がなければ、愛ということもあり得ないと僕は考えている。(人によっては、愛の方が先だと考える人もある。愛の喪失が憎悪になるということだが、僕は反対の見解を有していて、憎悪が先に生まれ、憎悪の存在が愛の要求を生み出すと考えている)
 従って、僕たち一人一人の中に「人を殺したい」という願望、ないしはそれに類した願望があるものなんだ。僕たちは普通にそれを抱えているものなのだ。問題は、自分の抱えているものにどう関わり、どのように管理し、手懐けていくかということだ。反動形成などをして、放置しておくことが一番良くないことだ。

 だから、僕の中にもやはりその願望はあるのだ。その願望は、排斥したり、無視したりしてはいけないのだ。もちろん、実現化させてしまうことがもっとも良くない。そのために、僕はそれに触れ、監視し、飼い慣らしていかなければならないのだ。自分の中にそれがあるという事実に直面したくなくても、それをしなければいけないのだ。そんなものは私の中にはありませんといった態度を固持すればするほど、それの勢力は増し、実現化の可能性を高めてしまうことになるのだ。

 とりとめもなく綴ってきたが、要するに、「カウンセラーになって人を助けたい」などと言っている人には要注意だということだ。そんなことを平然と言っている人が僕は怖い。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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