12年目コラム(9):人を助けたい
よく「カウンセラーになって人を助けたい」と言う人を見かける。あるいは「人の役に立つ仕事に就きたい」と願ってカウンセラーになりたがる人もある。僕は思う。これらはとても危険な思想である。
どんな職種でも、なんらかの形で人助けに貢献しているし、人の役に立っているはずである。カウンセラーだけがそれをできるなんてことはないのだ。
もっと言おう。人を助けたいとか役に立ちたいと思うなら、公衆トイレの掃除人になる方が、カウンセラーになるよりも、よっぽどその動機を満たしている。僕はそう思う。カウンセラーなんて、その観点(人助け、役に立つという観点)から見れば、公衆トイレの掃除人以下の存在である。
現実をよく見るべきだと僕は思う。人は他人を助けることなんてできないのだ。その人を助けることができるのはその人自身だけなのだ。それ以外の人間はわずかにその手伝いをしているだけなのだ。自殺を防げないのはその好例である。その人自身が生を放棄しようとしている限り、周囲がどれだけ尽力しても、救えないことが多いのだ。
また、次のことも言っておこう。クライアントが良くなる、あるいは回復するというのは、すべてクライアントの中にある力に基づくものであって、カウンセラーの能力とか技術とかによるものではないのだ。カウンセラーが一人のクライアントの役に立つのも、そのクライアントがそのカウンセラーを信頼しているからであり、そのカウンセラーの技能なんて二の次なのだ。
だから、クライアントが回復するかどうかはそのクライアント自身に大部分がかかっていると僕は考えている。本当はクライアントの力なのに、上手く行くと、自分がプロのカウンセラーだと自認したり、あるいは「○○療法」を創始したとか、「○○テクニック」を開発したとか言う臨床家もあるが、思い上がりも甚だしいと、そう僕には見える。
どの人にも自分を良くしていくために必要なものが備わっている。これが僕の大前提である。それは表に現れる必要のあるものである。これを理解するには、人間の潜在性ということを述べなければならないが、それは今後取り上げることにしよう。
しかし、一部の人たちはそんなこと信じられないと言うかもしれない。自分が少しも良くなっていかないからだ。それでも僕は言う。その人にはその人自身を良くしていくために必要なものはすべて備わっていると。ただ、それに対して妨害する何かがあるのだ。
カウンセラーができるのは、クライアントと一緒にその妨害物を見出していくことである。そして、その妨害物がいかにその人の生を不毛なものにしてきたかに気づいていくこと、それを援助していくことである。そして、最後に、その人がその妨害物を捨てることを手伝うだけである。臨床家は、それ以上のことはしてはいけないし、それ以上する必要もない。
これは何も特別な考え方ではない。例えば、精神分析では、その妨害物は無意識なので、それを意識化することを目指そうと言っているようなものである。行動療法においては、この妨害物は、誤った学習による行動であると見做して、だから、それの除反応を学習して、正しい学習によって望ましい行動を身に付けましょうという考え方である。論理療法や認知療法においては、この妨害物はその人の非論理的な思考であったり、認知の歪みであると見ているわけである。催眠療法では、この妨害物が働かない状態に催眠誘導して、そこで暗示を与えていくものと見ることもできる。アドラー派の個人心理学においては、この妨害物は過剰な目標であり、ロジャース派の来談者中心療法では、この妨害物は自己の不一致によりもたらされると見ることもできるので、アドラー派では過剰補償の訂正が、ロジャース派では自己一致ということが目指されるわけである。
いわゆる、「治療」とは、抵抗の除去ということである。これは極論かもしれない。でも、どのような学派の方法論にもそれが含まれているように思う。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)