12年目コラム(3)―<雇われない人間>

 僕は独立して、ここで独りで仕事をしている。およそ11年間、ずっと独りだった。
 独りで仕事をしているというのは、人から見ると、どんなふうに見えるのだろう。
 気楽だと思う人もあるらしい。確かに気楽な部分がないわけではない。ノルマに追われるわけでも、上司や顧客の顔色を窺ったりする気苦労もない。
 でも、独りでやっているということは、少しでもサボったら、100%それが自分に返ってくるということでもある。誰も代わりにやってくれる人がいないのだから、当然である。そして、これがけっこう厳しいものであるということも、やってみて分かってきた。

 世の中、人を雇う側と人から雇われる側とに分かれる。後者の方が大多数である。僕は雇われる側になるのがイヤだった。必ず、雇い主と反発してしまうだろうから。たとえ上司であれ、社長であれ、間違っていると思われるところや、正しくないと思われるところがあると、僕は黙っていられなくなる。
 それは、決して、正義感が強いとかそういうわけでもないし、いつでも上の人間に楯突くといった意味でもない。上の人間が間違ったことをすると、下の人間全員が間違うことになるからだ。僕がそんなふうに思うからだ。その意味で、僕は自己保身のためにそうしたくなるのだ。
 そこはよく誤解されてきたところでもある。他の人たちに言わせると、僕は厄介な人間で、反抗的なのだということになるらしい。そう思われるのは仕方がない。実際、そういうことをしていたのだから。
 僕も間違ってはいたよ。企業人なんて、社長の計画を実現することが使命なので、それが正しかろうが間違っていようが、関係がないのだ。それを知らなかったものだから、その計画が正しいものなのかどうか、僕が納得するまでは動きたくなかったのだ。
 そう、僕は間違っていた。でも、そんな企業人になるより、間違ったままでいた方がよっぽどいいとさえ思っている。

 まあ、そんなこんなで、僕は誰からも雇われているわけでもなく、誰かを雇っているわけでもなく、本当に独りきりでやってきたのだ。
 見ようによっては、クライアントは僕を雇っているようなものかもしれない。でも、それは社長と社員の関係ではなく、店と客の関係のものだ。雇用とは意味の異なる関係だ。
 僕が独りでたいへんそうだと言って、誰か事務員とかを雇えばいいのにと忠告してくれたクライアントもいた。僕のことを心配して、それでそう言ってくれたのだと思う。
 しかし、僕が社長になったら、間違いなくブラック企業にしてしまうだろうから、僕は今のままでいいよ。僕が独りでやっている限り、不幸になる部下は現れない。だいいち、部下に給料を払うのがイヤだと考えているような人間なんだから、やはり、今のまま独りで続ける方がいいようだ。

 独りで仕事をするのはキツイことも確かにある。でも、このキツイ部分ばかりを意識していると、どこかでボロが出てしまう。
 数年前だけれど、当時の行きつけの居酒屋さんでのことだ。いつもなら野球なんかがテレビで流れているのに、その日はアメフトだったかラグビーだったかの試合が流されていた。珍しいなと思い、それでも僕に関係はないのだから、いつものようにお酒を飲んでいた。
 店の女性が、「こういうフットボール(ラグビー)って、男のスポーツっていう感じがするわ」とかなんとか、そういうことを言ったのだ。僕は、酔っていたせいもあるけど、カチンときて、「何が、こんなもんのどこが男のスポーツや。自分が危なくなったら他人にボール渡せば終いやないか」と、ついつい毒づいてしまったのだ。
 本当は、僕の言いたかったことは、ボールを抱えても、誰かにパスできるのは幸せじゃないかということだった。こっちはパスしたくてもパスできないんだぞと、一旦、ボールを抱えてしまったら、最後までそれを抱え続けなければアカンねんぞ、ということだったのだ。
 しかし、うっかり毒づいたとはいえ、その後に変な視線というか、殺気を感じた。振り向くと、けっこう険しい顔した男性陣が。店の女性が言う、あの人たちフットボール部のOBたちなのよって。母校の試合があるから、ここで集まって観戦しているのだと。
 そういうことは先に言っておいてほしいね。そうと知っていれば、多少は言葉を控えたのに。

 でも、そこで言葉を控えようと、僕の考えは変わらない。誰かにパスできたり、丸投げできるなんて、僕から見ると、羨ましい限りだ。それをしたいと思うことがどれだけあっただろうか。
 誰からも雇われず、誰をも雇わないというのは、こういう生き方をすることなんだと、改めて思う。

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー

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