12月24日:唯我独断的読書評~「母親を奴隷にする子供たち」 

12月24日(木):唯我独断的読書評~「母親を奴隷にする子供たち」 

 

『母親を奴隷にする子供たち』(ホルガー・ヴィルヴァ著)竹内書店新社 

 

 原題は「シュララッフェンランドの子供」という。シュララッフェンランドとは、ドイツの人には馴染み深いもので(ちょうど、日本人が昔話で「鬼が島」とか「竜宮城」といった地名に馴染んでいるように)、そこは何もしなくてもミルクや蜜が流れ出る世界なのだそうだ。 

 この原題を直訳しても訳がわからないだろうからということで、『母親を奴隷にする子供たち』というタイトルになったそうだが、このタイトルですべてを語っているという類の一冊だ。 

 自分の欲求を満たすために母親を奴隷のように扱う子供たちに関する考察がなされているが、AC(アダルトチルドレン)理論の逆の立場とも言えるテーマである。 

 ただし、本書は基本的に「教育」的観点から考察されていて、僕の独断では「教育」方面からの考察は表面的になりやすい、そう感じられてしまう。 

 例えば、子供の側のことはどう書かれているだろうか。子供は際限なく欲求を持ち、それを何が何でも満たそうとする。そのために母親を利用するのだが、子供は母親がどうすれば言うことを聞くかということを知っており、その策略を立てている。著者の子供観はずいぶんズルくて悪賢い子供という印象を受けてしまう。僕が思うに、これは子供のある一面だけを捉えたものだ。 

 一方、母親が子供の欲求に従ってしまうのは、母親の中に「教育」や「育児」の神話への囚われがあるからであるという見解を著者は展開している。これもまた母親のごく一面だけを捉えたものだと僕は考えている。 

 従って、この一面に関してはどちらも正しいわけであるが、現実の人間状況はもっと複雑であり、それ以外の要素が多分に入り込んでいるものだ。 

 例えば、子供は本当に自分の欲求を満たすために母親を操作していると言えるだろうか。そういう場面、そういう子供ばかりだろうか。例えば、それ以外の関わり方が禁じられているので、そのようにしか関わることのできない子供もいるのではないだろうか。 

 母親は、分かりやすい言葉で言えば「過保護」なのだが、母親が「過保護」になるためには、母親自身の個人的体験や神経症的傾向、その他、多くの失望や敵意、憎悪が働いているものである。そういうことには一切触れられていない。 

 さらに、僕が不思議に思うのは、どうしてそれが繰り返されるのかということだ。子供が欲求を満たしてもらえて、満足するとする。満足して次の段階に進むのかと言うと、本書に登場する子供たちはそうはならず、一つの段階で停滞してしまっている。どうして前に進まないのだろう。欲求を満たしてもらうこと、それがその子が本当に望んでいることではないためかもしれない。その子は、それをすることで本当の望みが叶えられると信じているが、いくら試みてもそれが叶えられないので、その段階を繰り返さなければならなくなっているのかもしれない。 

 そのように考えると、この子たちは偽りの満足を繰り返していることになる。事例として挙げられている子供たちを見ていると、この子たちが本当に満足しているようには思えないのだ。そのために前に進めないのだとすれば、その妨害物を取り除かなければならないのではないだろうか。僕はそのように思う。 

 しかし、本書は、そのタイトルとは裏腹に、子供たちを論じているのではなく、むしろ母親を論じているのだ。事実、母親の子供への対処が後半部分の中心テーマとなる。従って、『子供の奴隷になる母親たち』というタイトルの方が相応しい感じがする。 

 

 ちなみに、本書を僕は以前にも読んだ。その時、あまりに退屈な議論と感じられたので、最後まで読むに耐えられなかった。途中で放り投げたのだ。 

 今回、あるクライアントのことで参考になるかと思い、読み直してみたのだ。今度こそ読み通そうと粘ったけれど、やっぱりダメだった。議論が浅すぎるのだ。 

 

 唯我独断的評価は、僕は二つ星を付ける。僕にとってはあまり有益なところは少なかったし、もう少し踏み込んで考察してくれたら良かったと思う。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

(追記) 

 その後、本書を二人ほど母親クライアントに貸してあげたことがある。母親の立場からすると本書はよく分かるということである。母親が読むと、もっと違った読み方がされるようだ。 

(平成29年7月) 

 

 

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