11月19日(木):不安な人
今日は、午前中は少し家のことをして、午後から出勤する。
その後、数は多くないけれど、数人の人と会ったり、連絡を取ったりする。それはクライアントだったり、業者関係の人だったりする。それで一日が終わった感じだ。
先週起こったフランスでのテロ事件でひどく不安に襲われているという人とも会った。あれは遠く離れた外国の事件だから、あなたが恐れることは何一つないんだと、僕は保証してあげる。でも、それを言いながら、こんなこと気休めにもならないと自分でも分かっていた。
不安や恐怖感情は、そのきっかけが生じた場所と物理的な距離はまったく関係がないものだ。フランスで起きた事件でも、その人には身近な不安として体験されているのだ。本当は心的な距離の問題なのだ。でも、絶対に安全だという保証はどこにもないから辛いのだ。今後、日本だってテロの標的になってしまうかもしれないからだ。
自分の死がいつやってくるか、誰も知らない。ちょっと気晴らしに劇場に行こうか、サッカー観戦しようか、そこに自分の死が待っているとしても、僕たちはそれを知ることはない。僕たちには予知能力がないからだ。でも、将来のことが分かるよりも、死を意識し、死の準備をしておくことの方が重要だと思う。哲学者は死の準備をしている人間だということを、ソクラテスは言っていたように思うのだけれど、本当にそれが必要になっている時代なのかもしれない。
哲学と言えば、テレビの「100分で名著」に、今月はサルトルが取り上げられている。僕はテキストを買った。期待して第1回目を見た。その1回目だけを見た。後は見る気がしなくなった。
サルトルの思想は、ナチス占領下のフランスで持てはやされたのだ。苦しい状況に置かれた人たちを励ます思想といった、そういう部分が確かにあるとは思う。もし、今、日本でサルトルの再ブームが来るとすれば、きっと、今の日本がそういう状況なのだと思う。サルトルは好きだけれど、僕はその状況は好きになれないと思うし、そういう状況になってほしくないと願っている。
『万霊節の夜』第4章を読む。ジョナサンとの婚約が無効にされたショックから、ベティが「心身反応」を起こす。幽体離脱のような体験をする。これは「ヒステリー性解離」と呼べるものだろう。ベティの魂は、肉体を離れ、レスターやイブリンと会う。なるほど、ここで死者と生者の接点が生まれるのかと感心した。
ベネデッティは、新たに読むのではなく、これまで読んだ論文の振り返りをした。再読だけれど、しっかり読むという感じではなく、ざっと振り返る感じである。
今日もお昼を食べられなかった。でも、夜は食欲が戻ってくる。無性に「焼き鳥が食いたい」という気分に襲われ、近所の店に入る。
カウンターで串を頬張っている。テレビで野球をやっていて、僕の隣の男性客がそれを観ている。焼酎をコップに半分ずつ入れてもらって、それを啜りながら観戦している。どうやら彼は試合の続きが気になってしまって、切り上げることができないでいるようだ。
試合は3対1で、日本チームが勝っている。ああ、それが彼にとって可哀そうなことに(僕には全然関係のないことだったけれど)、最後に日本が逆転負けしてしまうのだ。不快感を露わに、彼は店を出た。
僕は思ったのだけれど、いっそのこと日本が勝っている間に、気分のいい間に店を出た方が彼にとっては幸せだったのじゃないかと。でも、途中で切り上げることができないのだな。それはきっと「依存症」の心理に通じるものだと僕は思った。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)