6月11日(木):「パーティーとステレオ修復の夢」
(夢)「パーティーとステレオ修復の夢」
小学生時代の友達だったPと再開する。久しぶりでみんなで集まろうという話になる。僕は喜んで参加する。会場はPの家だったと思う。普通の一軒家の和室で行われた。家はその部屋以外は改装中で、僕たち銘々が飲み物や食べ物を用意してきて、分け合った。音楽がないのは寂しいなと僕が言うと、そこにステレオがあってレコードがあると言う。見ると、プレーヤーもアンプもすべて接続されていないので、僕が散らばったコードをほどきながら、接続する。なんとか形になる。レコードをかけてみる。針が一気に中心部へ滑りゆく。床が傾いているせいだと思い、ステレオの下にモノを挟んで、水平になるように工夫した。何度目かのチャレンジで、ようやく音楽が聴けるようになった。それでも、スピーカーの位置を調節したりとか、落ち着いて音楽を聴くためにいくつかの作業をしなければならなかった。その間、参加したメンバーも自由行動で、食べ物がなくなったと言えば買い出しに出て、表の工事を手伝う人もいた。ステレオセットの組み立てを手伝ってくれた人もいた。でも、苦労して音楽を聴けるようにしたものの、誰も聞こうとはしない。
(連想と感想)
目が覚めた時、ひどく体の具合が悪かった。そうした体調も夢の内容とは関連があるだろうとは思う。なにもかもがスムーズに運ばない夢だった。
Pとは、もちろん彼の綽名だけど、小学生時代の友達だった。夢で見て、彼のことを思い出した。いい奴だが、あまり人付き合いの良い方ではなかったように記憶している。もちろん、僕たちのグループ内ではお互いに仲が良かったけど。Pのためか、この夢はどこか小学生時代の色彩が濃いという印象を受けた。
みんなで集まろうと彼が提案する。集合的な要素だと思うし、無意識の表象であるように思うが、これは統一されていない。メンバーが銘々勝手に動く。僕の中でそうした統率が乱れているのを確かに感じる。心の様々な部分が突出して動き出すよう。そのために落ち着きなく、一つの衝動が向かうところの活動に従事したかと思うと、次の瞬間には別の衝動に従ってしまっているという感じがしている。
ステレオセットは、実際、僕が小学生のころからあるやつで、今でもその一部は使用しているという年季の入ったものだ。夢の中でも同じのが出てきた。このステレオセット、父がプレセントしてくれたもので、小学生の僕にはすごく高価なものだった。覚えているのは、ステレオセットなのだけれど、いささか無理な組み合わせをしたもので、電気屋さんが苦労して接続していったのを覚えている。
夢の中では僕はこの電気屋さんと同じ立場に立っている。この電気屋さん、父とは懇意だったから、僕は昔から知っているのだけれど、電気屋さん個人のことは良く知らない。どうしてこういう同一化が生じたのか、今の段階ではよく分かっていない。ただ、その電気屋さんも個人店主で、自営業になるのだけれど、近々引退すると言う話を耳にしたこともある。街の電気屋さんというのは量販店に押されて厳しいらしいし、その人ももう高齢だから引退を考えたのだろう。
引退と言えば、僕もいつかは引退する日が来るだろうし、その時のことを考えることがある。高齢になって引退するまでは働きたいと思うけれど、それまでに引退しなければならない事態が生じるかもしれない。そんな日が来たらどうしよう、思っていたよりも早く来たらどうしようといったことを最近考える機会が増えている。
どんなことでも終わりのことを考えておくことは、今を充実するためには必要なことだと僕は思うのだけれど、けっこう不安な気持ちでそれをしているということに気づく。
さて、ステレオセットを直し、水平になるように調整し、スピーカーを設置する。こうした一連の作業はとてもたいへんなことであったが、何のためにそれをしているだろうか。音楽がないと寂しいと夢の中では考えているが、孤独を紛らせるために音が必要だということかもしれないし、それが僕の音楽に対する執着としてあるのかもしれない。
ただ、僕のかけるレコードが誰も聞かない。僕の鳴らす音は誰にも響かないということなのだろうと思った。僕に耳を傾ける人も、注目する人も、ここにはいないのだ。それぞれが自分の好きなように動く。夢では、音楽を通して、僕がいかに注目されないでいるかという感情を喚起するし、僕は自分の苦労が見てもらえていないという感情をも体験する。みんなにもそれがいいだろうと思ってやったことが、まるで無視されるといった構図もここに見て取ることもできそうだ。
僕はそのことでいかに心を砕いてきたということに改めて気づく。
また、音楽は感情表現だと僕も信じている。曲には初めがあり、終わりがある、その中に起伏があり、プロセスがある。それは人間の感情体験であるように僕には思える。従って、僕が自分の感情体験をしっかり体験できるようになるまでに、少なくとも今の段階では、多くの改装や接続、調整が必要なのだと思う。
以前の夢と比べると、「荒地の夢」のように広範囲の改装や修理はなくなり、一軒家の内部やステレオセットといった小部分のものになっているように思う。「二人の助手」の夢のような明確な助手はいないけれど、何人かは僕の仕事を手伝ってくれたように思う。他の人たちは家の改装を手伝う。それだけ改善の作業にエネルギーが注がれるようになったのかもしれない。また、銘々が自分勝手に動いているけれど、これは二人の助手のうちの男性で表されていた衝動性と通じるものが感じられる。それでも、僕が制御しなくても、彼らは彼らで仕事をするのだということも感じられる。無理に制しようとし過ぎない方がいいのかもしれない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)