12月29日:スランプにて 

12月29日(金)スランプにて 

 

 昨夜はお付き合いで呑んだ。これで約束していたことはすべて果たした。昨夜を飲み納めとしよう。 

 今日は、それもあって、少し寝坊をしてしまった。朝のクライアントには間に合ったけど、準備が雑になってしまった。少し反省せんといかんなと、終日思い続けていた。 

 

 予定されていた仕事は、変更やキャンセルもなく、無事に終了した。まあ、無難に仕事をしたという感じがする。僕の中では不完全燃焼な感じもあるが、それも仕方がない。できることしかできないし、なるようにしかならない。不満でも結果を受け入れなければならないこともある。 

 最近、思うような仕事ができないと感じている。まあ、あまり援助者の思うとおりに仕事をすると、被援助者の迷惑にもなりかねないので、そこはほどほどでなければならないのだが。 

 とは言え、近頃、僕の師匠たちを恨みたくなったこともあった。師匠がもっと僕を鍛えておいてくれたらと思うことがあった。 

 でも、師匠を恨むことは筋違いだ。師匠たちも臨床家としてやってきた人たちだ。僕よりも優れている人たちだ。彼らが鍛えていないと恨むより、僕が自己をしっかり形成できていないことを恨むべきだ。その方が筋が通っている。 

 スランプに陥っている時こそ、僕は自分を創っていかなければならないのだ。僕たちは常に自己形成していく存在なのだ。一足飛びで完成されるなんてことはあり得ないのだ。そこに至るまでにいくつもの壁を越えなければならないものだ。甘えたことは言ってられない。 

 

 しかしながら、師匠を恨みたくなる気持ちは、人生が上手くいかなくて親を恨む気持ちと似通ったものだろう。ACたちと同じ感情だと思う。ただ、僕は恨むのが間違っているということが分かっているけど、彼らは恨むのが当然だと思っているようだ。どちらが良いことであるかは人それぞれの判断に委ねよう。 

 

 ここに至って、先日の「師匠の夢」が思い出された。師匠が鍛えてくれなかったとか、そういう話ではなく、師匠たちが遠くへ行ってしまって、僕がつながりを喪失しているのだという気がしてきた。このつながりというのは、現実のつながりということではなくて、僕の内面におけるつながりということだ。 

 

 足の具合は悪い。一昨日だったか、大掃除の途中で足をひねってしまい、足首が痛く、それに関連して筋も痛い。さらに、それに連動して、膝具合も悪くなった。 

 昨日が痛みのピークだったかもしれない。今日は幾分ましである。きっと、明日はもっとましになるだろう。 

 

 仕事の後、喫茶店にて書き物と読書をする。 

ああ、年末という感じだ。やたらと人が多い。高槻にこんなに人がいたっけ、と思うくらいだ。みんな普段はどこにいるんだろう。 

 特に、家族連れとか団体が目立つ。皆、楽しそうだ。それもいいだろう。僕にはそういう楽しみは無縁である、というか、無縁なものにしたい。僕は僕の目標を追及することにした。今夜はひたすら勉強して過ごした。 

 

 帰宅後は、小説なんかを読む。論文以外のものだ。読んだ感想なんかを書き残す。その流れでこのブログも書いている。 

 もっと仕事がしたい。今よりもいい仕事ができるようになりたい。贅沢を言えば、本当にやる気のあるクライアントとだけ出会いたい。賢いクライアントと仕事をしていきたい。愚かな人は進展しないものだ。 

 とは言え、そうそう賢い人もいなければ、そうそう愚かな人もいないものだ。今来ている人の中で、若干2名くらい愚かな人はいるけど、後はそうではない。愚かな人は、トンチンカンなことをするものだ。それは、「ずっと考古学を勉強してきたのに、どうして数学者になれないのだろう」と嘆き続けるくらいトンチンカンなのだ。 

 人のふり見てわが身を正せというわけではないけど、クライアントたちと会っていると、生きるということがますます身に染みて理解されてくる。クライアントと共に、僕も変容していく。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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