12月15日(金):治らない人
今日は金曜日にしては珍しく忙しい一日となった。このところ金曜日はヒマになることが多かったのであるが、今日は久しぶりに多忙な金曜になった。今後ともこれが続けばいいのにとも思う。
新規のクライアントともお会いした。やっぱり録音させてもらうと助かる。聞きなおしてみて、見えていなかったところが見えてきた。クライアントに関して見えてくる部分が増えれば増えるほど、僕は落ち着いてクライアントとお会いできる。
しかし、今日の新規の方とお会いして、中断したままになっている書籍のことを急がねばという気持ちになった。僕はやっぱりそれを言いたいという気持ちを再確認した。
カウンセリングを受けてよくなっていく人(治る人)と変わらない人(治らない人)
とは、決定的に違うことをやっているのだ。カウンセリングの場面においても、その他の場面においても、体験していること、認識していること、目指しているもの、すべてにおいて違うのだ。
クライアントは自分以外のクライアントのことを見る機会がない。だから、他の人、治る人がどういうことをやっているのかを知る機会もない。だから無知のまま経過するのだ。自分が治らない人間でいることに気づかないまま治療を続けているのだ。治らない人間のままでいて、治ることなんてありえないのだ。
「治る」よりも先に「治る人間」になること。人間の形成が先に成されなければならない。それはちょうど建物を建築する前に基礎を作るのと同じである。基礎をしっかり作らずに建物を作れば、すぐに倒壊するのが当然である。治療でも同じだ。先に形成される必要のあるものをすっ飛ばしてしまえば、仮に治癒したとしても、呆気なく崩壊するものである。
治らない人は僕が何治療法を行っているのかを知りたがる。関係ないのである。その人が治る人になれば、その人はどの治療法でも治るのである。治療法の種類など関係がないのである。治療法の種類は、クライアントには関係がなく、あくまでも臨床家に属する事柄なのだ。臨床家が自分好みのやり方を採択しているのだ。
それはともかく、治らない人は治らないままでいることが必要であったのだ。それに気づくといいのだけど、それに気づくことはかなりの衝撃をもたらすかもしれない。慎重にそこはやっていかなければ。
さて、夜は行きつけの飲み屋に顔を出す。何を隠そう(隠すことでもないけど)、明日は忘年会だ。その忘年会のことの確認事項と連絡事項があったので顔を出した。まあ、それは事実半分、言い訳半分で、本当は飲みたかっただけなのだが。
酒飲みは自分はアル中(アルコール依存症)ではないなどと言い張ったりする。別にそれは構わない。本人がどう思おうと自由である。しかし、アルコール依存症なんてかなり手前の問題だ。その奥にあるものが恐ろしいのであるが、そのことを知っている人は少ない。
アルコール依存症というものは、どれだけ程度の重いものであっても、断酒をするとかなり快復する。アルコール精神病となるとそうはいかない。これは断酒しても元には戻らないのである。依存症の奥に精神病があるのはアルコール(薬物)くらいではないだろうか。ギャンブル依存や買い物依存にはそれがない。身体にダメージを与えるか否かでその違いが生まれてくるのだろう。
まあ、ほどほどに飲む。一日の上限を大きく上回ることのないようにだけは気をつけている。明日もほどほどにする予定だ。
忘年会と名のつくものに参加するのは、ホント、10年ぶりくらいじゃなかろうか。仕事があるからと毎年断ってきたのだけど、そのことをチクチク言い続ける友達がいて、まあ、仕方がない、人生最後の忘年会くらいの気持ちで参加してみることにしたわけだ。一回でも参加しておけば、チクチク言われることも減るだろう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)