2月22日(火):優生思想は滅びず
今日は定休日だ。いつものように体を動かすために歩く。今日は12000歩ほど歩いた。休日のノルマは達成している。
今のところ体は動く。膝の調子も、好調とまでは言えないけど、それなりの状態を保っている。コロナ感染は常に気にしているけれど、一日二回の検温で37度に達することすらない日々が続いている。とりあえず、身体的には問題はなさそうである。
旧優生保護法に基づいて不当な手術を受けたという人が裁判で勝訴したとテレビのニュースで流れていた。けっこうなことである。個人的には裁判なんか通さずに、該当者には国が賠償金なりを出せばいいと思っている。つまり、国と当事者と示談の形で進めていい話であると僕は考えている。
と言うのは、優生保護法は当時はそれが正しいと信じられていたのであり、国は当時の知見に基づいて法を作成しているであろうからだ。顕微鏡で見ればすぐわかることであるけれど、顕微鏡のなかった時代にアリストテレスの生物学に誤りがあったからといって、アリストテレスを責めるわけにはいかないのである。某哲学者の喩えを拝借したけれど、それと同じである。
正確に年代を特定することは難しいのだけれど、20世紀初期から半ばころまでは精神医学でも優生思想が色濃く見られていた。これは遺伝学の発展による影響が大きいのである。精神病とか精神障害は遺伝するものであると信じられていたわけだ。だからその時代の精神科医たちは、患者の家系を調べて、遺伝負因を確かめたりしていたのである。
遺伝学に加えて、ゴールトンの家系研究なども背景にある。天才を生む家系では天才を多く輩出しており、犯罪人を生み出す家系では犯罪人が多くみられるといったことをご丁寧にも証明したのである。
その後、遺伝は必ずしも決定的ではないと言われるようになった。1920年代とか30年代頃に言われ始めたのではなかったかな。契機となったのは双生児研究である。一卵性双生児の場合、同じ遺伝子を有しているので、一方が精神病であれば他方も罹患するはずと予測されるのに、そうならないケースが見られたりしたのである。そして、徐々にではあれ遺伝の影響を重視しなくなっていくのである。
心理学でも遺伝か環境かという不毛な議論が展開されるようになったのもその時期である。
続く1940年代から50年代にかけて、精神病の家族研究が隆盛となり、今度は遺伝負因よりも家族関係が注目されるようになったのであるが、今日はそっちに話が流れないようにしよう。
要するに、優生思想というものが信奉されていた時代があったのである。バートランド・ラッセルでさえ、その「結婚論」において、優生思想を展開しているくらいである。良くない素質を持った者どうしの結婚は避けたほうがよいなどと言っているのである。
また、ナチスのヒトラーも優生思想の持主であった。ゲルマン民族は優れ、子孫を残すことが推奨され、ユダヤ民族は劣等であり絶滅しなければならないなどと考えていたわけだ。これはれっきとした優生思想である。
少し極論を言えば、差別のあるところには必ず優生思想が見られるはずである、と僕は信じている。
優生保護法を廃止しても問題は何も解決していないのである。本当は何一つ前進していないのである。その法の根底にある優生思想から僕たちが解放されていないのであれば。
優生思想はいまだ滅びずである。差別のあるところ、例えばヘイトスピーチなんかはそうである。あれこそ優生思想である。また、自称AC者の中にも優生思想を強く有している人がけっこうおられる。毒親とか親ガチャとか、そういった言葉の背景には優生思想が潜んでいると僕は感じている。いずれにしても、優れた人間は優れた親から生まれて最初から最後まで優れているのであり、不良な人間は不良な親から生まれて最初から最後まで不良である、といった認識はすべて優生思想である。
優生思想から抜け出る一つの道筋は徹底的な個人主義である。成功するのも自分の責任であり、失敗するのも自分の責任である。ライバルに勝てないのは自分の努力が足りないからである。不幸な結婚をしたことも、生活が苦しくなることも、すべて自分の責任である。すべてを自分に還元すると優生思想からは解放されると僕は考えている。自他に優劣という観点を持ち込むことがないからである。
だから、僕はそうしている。すべてが自分の責任なのである。個人の心の問題に親なんか関係ないと僕が言うのもそうなのだ。
もし、今こうしていて大地震が発生して、倒壊した家屋の下敷きになってしまったとしても、それは僕の責任である。地震が発生したときに危険な場所にいたのは僕の自由意志によるものだからである。
夜道を歩いていて通り魔に刺されたとしても、それは僕の責任である。襲われる場所を歩いていたのは僕の自由意志によるものであるからだ。だから襲われた責任は僕にある。ただ、刺した側の人間は刑を受けなければならない。それは刺した側の人間の責任であるからである。
こうした個人主義は、不条理に映るだろうと思うし、相当厳しいものに見えるだろうと思う。でも優生思想よりはましだと僕は考えている。
優生思想は容易に差別と結びついてしまうと思う。そうなるとそれは危険な思想になってしまう。そして、優生保護法は廃止されようとも、優生思想はいまだに途絶えることなく世の中で生き続けている。今後、新たな優生保護法や形を変えた優生保護法が現れないという保証はどこにもなく、自分がその法によって苦しむ立場に陥ってしまう可能性が今後とも常にあるのである。優生保護法の本当の解決はまだ達成できていないのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)