2月20日:毎日を生き抜く

2月20日(日):毎日を生き抜く

 

 最近はものすごく忙しい。儲からないくせにやることはたんまりとある。そのすべてをやってやろうと決めている。

 そこに壁があるなら突破し、山があるなら登ってみせる。もし、そこに壁がないのなら自ら壁を作り、山がないなら自ら山を作る。生きるとはそういうことだと今は実感している。

 昨夜から今朝にかけて見た夢、銃撃戦の夢であるが、あの夢が教えてくれていることはそれなのだと僕は理解している。自己の中心にて戦わなければならないのだ。ウッカリ自分の思い込みや予想でやってしまうと、裏をかかれてしまう。戦うなら決して気を抜いてはいけないのだ。

 

 今日は午前中は仕事があり、午後からは事務的な作業をこなす。夕方には職場を後にするが、これは家ですることがあるからである。

 サイトのこともしなくてはいけない。このサイトは、ページ側とブログ側と二本柱である。これが今度から5本柱になる。そのうち一つは重複しても構わないので、4本柱ということになろうか。要するに、今の倍の作業が待ち受けているということである。僕はそれをやっていく。決して怯んだりはしない。

 

 夜は未鑑賞だった映画も鑑賞した。映画を鑑賞するとは、僕が送っているのとは別の人生を送る体験なのだ。それがヒーローであれ、悲劇のヒロインであれ、構わないのである。僕は僕の人生しか送ることができないが故にそこを超越したいのだ。

 今回、いい映画を観た。これはまたキネマ館にて取り上げたいと思う。不思議なもので、昔の映画が素晴らしいと思えるようになっている。双葉さんが言っていたのか、淀川さんが言っていたのか、映画は1950年までには完成していたという説に僕は賛成である。50年以降現代までの映画は、すべてその上に成り立っているのだ。その上に新たに付け加えているだけなのだ。

 従って、1950年以前の映画の方が余計なものが付加されていない分、より理解しやすいのだ。加えて、より本質的なのだ。僕はそう思うようになった。

 

 常により原点に、僕にはその傾向がある。音楽でも、だんだんと過去の音楽に興味を持ち始める。クラシックで言えば、最初はロマン派の作品から入り、徐々に古典、バロックと遡っていく。バロック以前のルネサンス期の音楽なんかに今は興味を覚える。

 同じ傾向はジャズやロック音楽でも同様だ。より初期のものに遡っていく。

 学問もそうだ。初期の心理学、初期の精神分析、初期の精神医学、初期の哲学へと、遡っていく。現代のものはまったく分からない。それでもいい。心理学なんて、その誕生から現在まで150年ほどの歴史があるが、前半をよく知っていたら後半は自ずと理解できると僕は信じている。というのは、初期に築かれたものの上に現代のものが成り立っているからである。初期のものが分かっている方が、より現代のものを理解できると僕は思う。いきなり現代のものに取り組むよりも却って近道であるようにも思えてくる。

 

 さて、本来ならまん延防止は今日までであったが、二週間の延長となった。気が重くなる。延長は分かっていたけれど、二週間後にどうなっているという予測を立てているのか、そこはまったく分からない。

 北京オリンピックも今日で閉幕らしい。感動ありがとうとか元気をもらったとか、月並みなフレーズをこれからも頻繁に聞かされることだろう。けっこうウンザリである。スポーツは戦争の象徴である。オリンピックに僕は戦争しか感じない。いや、実際そうなのだ。オリンピックが平和の祭典というのは、かつてギリシャではオリンピック開催中は休戦することになっていたのだ。その代わり競技で戦争しているわけなので、僕にはあまり平和という感じを受けないのである。

 8年後、2030年の冬季オリンピックを札幌に招致したいらしい。マジか、と思ってしまう。昨年のズサンな東京オリンピックの記憶がもう薄れているのだろうか。あれよりましな大会にできるなどと本気で信じているのだろうか。僕には信じられない。

 

 ともかく、世の中の状況はますます悪くなっていくだろうと僕は信じている。好転する要素がほとんど感じられないのである。どうやって生き抜くか、僕にとっては毎日がサバイバルのようだ。

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

 

 

 

 

 

 

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