11月3日(金):臨床と生活におけるパンセ集(1)
日頃、仕事をしていて経験する事柄、考えたことなどをメモしている。こうしたメモは、後にサイトの原稿などになったりするのだけど、これからはその都度記録して、公開していこう。もちろん、クライアントの個人的な事柄には触れないようにはする。
(1A)自己否定感情というのは、現実のものではない。クライアントにはそれがリアルな感情として体験されているとしても、それは現実ではない。自己否定感情は自己の解離から生まれるものだと僕は思う。解離された自己が現実の自己を否定する、というよりも、この解離そのものが否定的に体験されるのだと思う。
(1B)同じく自己否定感情。断片化された自己。否定的に体験されている自己の一部に全面的に同一化している状態として理解できるのではないだろうか。この場合、部分的同一化よりも、自己の断片化の方が問題である。
(1C)声の大きい人が一人いると、その場の全員の会話ボリュームが大きくなるものだ。無駄な発話が多くなるのは、お互いに相手の話が聞こえなくなっているからだ。騒音をまき散らしているのを会話だと信じている人もいる。
(1D)饒舌。会話の場面で適応できていないことを示すサインである。
(1E)不登校やひきこもりの子供にはカリカリした親がつきものだ。待つことができない親と待ってもらえなかった子供がいる。待つことを覚えようという試みは親たちを不安に陥れる。親が不安になればなるほど、親はこの子供を見放したくなる。この悪循環をどうにかして断ちたい。
(1F)楽になる。これは退行へ向かうことだ。自殺もまた無に帰するということでは究極の退行である。退行が心理療法で目標とされることはないのだが、クライアントはそれを目指してしまう。
(1G)他人と比較するから劣等感を覚えるのではない。劣等感の強い人は他人と比較することができない。そういう人が比較しているのは延長化された自己である。この場合、他者とは延長化された自己である。自己の延長物としての他者と比較しているということだ。だから彼らは本当には他人と比較できないのだ。比較される自己の方が曖昧なのだ。
(1H)強迫的なまでに自分を良くしようとしている人は、決定的に何かが悪くなっているのだ。ユングもそういうことを言っている。
(1I)不在を通してしか存在を示せない人もいる。自分が「ない」ということでしか自分が「ある」ということを語れない人たちだ。
(1J)僕のサイトを読む人。愚かな人は公式を探し出そうとする。賢い人は個々のクライアントが示すドラマや状況を読む。彼が人間であれば、他人のドラマや状況に無関心ではいられないからだ。
(1K)一冊の本を読むと、次の本はもっと容易に読めるようになる。基礎ができると後が容易になるものだ。何事も最初が厳しいものである。
新しいことを始める時、どの人も初心者である。新しい状況に直面することも、新しいクライアントと会うこともそうである。人は常に初心者であり、学習者である。
下積みというのは仕事のすべてである。下積みの経験は後々まで生き続ける。ベテランの仕事の大半は下積みの仕事である。
生きるとは学び続けることではないだろうか。
(1L)しっかり生きないといけない。今まで以上に学んでいかなくてはならない。時間は限られている。
僕の中に不足と欠乏を感じる。何かが足りないのなら、補っていけばいい。
空虚なものに流されてしまうことが一番良くない。その場限りのものに安易に流されてしまってはいけない。
地に足をつけ、着実に歩を進めていくことだ。
自分自身に意識的でなければ、人生は無情にも僕の傍らを通り過ぎて行く。
(1M)売れる本は偽物である。ニーチェもキルケゴールも後から発見された人たちだ。ソクラテスもそうだった。文学方面ではカフカもそうだ。本当に世界や人間が見えている人は同時代からは受け入れられないものである。我々に真実から目を背けたいという望みがあるためだと僕は思う。
(1N)自己の自己性。自己が他ならぬ自己自身であること。これが自明な人たちはまだいい。と言っても、これがまったく自明になっている人はほとんどいないかもしれないが。僕もまた自己の自己性を確立できているとは思えない。それの達成のためには、何が僕に属するもので、何が相手に属するものであるかを意識の俎上に上げていかなければならない。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)