<#11-14>キレる配偶者~破綻 

 

(キレるとは破綻である) 

 前項ではキレるという行為を発達の観点から見てきました。本項ではまた別の観点からキレるという現象を考察したいと思います。 

 本項での論旨は、キレるとは破綻であるということであります。ある人がキレる時、その人の中で一種の破綻が起きているということを考えたいと思います。 

 つまり、キレるということは、その人がもはや自分を維持できなくなっているということを表しており、そこで自己の破綻がキレるという現象として表出されるものであるということであります。それは暴発反応と言えなくもないのですが、私は程度の軽い急性精神病とみなしております。この場合、キレるということが問題なのではなく、その人の破綻が問題になるわけであります。 

 

(キレるは破綻の防衛でもありえる) 

 もし、ある人がある場面で精神的な破綻とか解体とかを経験しそうになると、生体はそこに陥らないように身を守ることでしょう。キレることは、そこで破綻が生じていることを示していると同時に、それ以上の破綻を防ぐための防衛機制と考えることもできそうであります。 

 これを敢えて言葉で表現すれば次のようになるでしょうか。ある場面、あるいはある人が自分を破綻させようとしているように体験されているとすれば、これ以上自分が破壊されてしまう前に、その場面なり人なりを破壊しなければならなくなる、ということであります。 

 例外パターンや引き下がりパターンの人で、なおかつ反省感情の生まれてる人の中にはそれに類似の表現をされる人もおられるのです。自分の耐えられる限界に追い込まれたとか、自分が壊れそうだったとか、そのような形で破綻を表現されることもあります。反射・反応次元での人たち、瞬間型の人たちも、瞬間的な出来事なので本人は把握できないのかもしれませんが、やはり同じような破綻の体験をしている可能性はあると私は考えています。 

 

(破綻と低下―法則性はあるか) 

 破綻とは、要するに自分が維持できなくなっているということであり、そこには人格水準の低下が伴っていると私は考えています。では、何がその人をして破綻に導いてしまうのかということは一概には言えないのであります。その人の中で起きていることなので、外部からは分からないのであります。 

 ある妻はどういうことをすると夫がキレるのか、その法則性を求めてきましたが、結果的に「分からない」ということになったのでした。それは当然なのであります。外的な法則性は見つからないかもしれないのであります。もし、法則性があるとしても、それは当人の中にあるものであり、当人独自のもの(つまりその人にだけ通用する法則性ということ)である場合が多いのではないかと私は考えております。こういう法則性は、仮にあるとしても、一般化できないものであると私は思うのであります。 

 

(複雑な感情体験) 

 さて、もしキレるということがその人の破綻を、もしくは破綻しそうになることの防衛であるとすれば、そこで生じている感情はきっと複雑なものであることが憶測できるのであります。 

 外面的にはその人は激怒しているように見えると思います。しかし、実際にキレている人を目の前にしていると、怒りという表現では不十分に思われることはないでしょうか。怒り以上にもっと必死な何かが私には伝わてくるのですが、いかがなものでしょうか。 

 怒りという感情は、私は正しくないと考えているのですが、仮に怒りであるとしても、通常の意味での怒りではなく、それ以外の感情の混合であると私は思っています。 

 従って、怒りよりも、混乱やパニック、精神的錯乱に近い感情のように私には思われるのであります。破綻寸前であるとすれば、そこには脅威が感じられ、被害感情や恐怖感情も含まれることでしょう。その他、嫌悪感情であるとか、危機感情、不安感情、焦燥感情なども喚起されていることでしょう。さまざまな感情の混合として当人には体験されているものではないかと私は考えています。そのような感情状態で、その人は心的に安住できない境地に立たされているように私は思うのであります。 

 

(反省できる人は自我が強い) 

 もし、キレる瞬間には自分が破綻あるいは破綻寸前の状態に追い込まれていて、そこでさまざまな感情、それも否定的な感情が大量に一気に意識に侵入してくるとすれば、その時の体験を言葉にするのは難しいでしょうし、思い出したくないという気持ちも生まれるかもしれません。それを振り返ることはさまざまな悪い感情体験を思い出すことになるからであります。破綻の経験の想起や反省は新たな破綻を招きかねないという恐れも生まれるのであります。このように考えると、当人にその時の記憶がないという例があるのも頷けるのであります。 

 この観点に立つと、それを反省できるという人は相当強い自我を有しているということになります。その人は精神的に強いということが言えるのであります。キレた後に反省感情が生まれる場合でも、キレた直後にそれが生じるということは稀であるように思います。私が見聞した限りでは、その後(キレた後)、数時間から数日後に反省感情が生まれていることが多いようであります。その瞬間(キレた瞬間)から、時間的にも距離を置かないと振り返るということが難しいのではないかと思います。 

 それが苦しい体験であるので、それをなかったことにしたいという気持ちが生まれるのも理解できるのであります。その時のことを自分から切り離したくなるわけであります。自己の連続性を欠く人はこれに成功してしまうと私は考えています。自己の連続性を保っている人にとっては、それは切り離したくても切り離すことのできない体験として自己の中に残るはずであると私は考えています。だからその人はそのこと(キレたこと)について悩まざるを得なくなるのであります。 

 

(キレるとは自己放棄でもある) 

 さて、自己が破綻しそうになるということは、現在の自己を放棄するとも言えるのであります。当人からすると自己の放棄をさせられたというように体験されてしまうかもしれず、そういうところから被害感情が生まれることもあるでしょう。 

 現在の自分が放棄されてしまうので、より原始的な反応や反射が優位に現れてしまうと言えるかもしれません。いずれにしても、そこには当人にとっての危機場面があると私は考えています。この危機に対処できなくなるということが一つの問題点として挙げられるように私には思われるのであります。 

 

(キレるは「症状」として定義される) 

 本項ではキレるという現象を破綻として捉えて考察してきました。どういうことが当人に破綻をもたらすのかということは特定できないかもしれません。また、速やかに破綻に至ってしまう人もあれば、かなり持ちこたえるという人もあるでしょう。そうした違いに関してはまったく触れていません。個人差があると思うからであります。 

 いずれにしても破綻という観点は、私にとっては、重要な観点であります。というのは、この観点によって、キレるということが精神的な「症状」として再定義できるからであります。それは症状になるので、治療の対象になり得るわけであります。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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