#11-9>キレる配偶者~反省感情の有無(3) 

 

(カウンセリングが苦痛) 

 キレた後、その人に反省感情が生まれるということであれば、その人はその時の自分と今の自分とが時間的に連続して体験されているとみなすことができます。こういう自己の連続性が失われると反省が生まれないのであります。連続性が失われると、その人は将来の展望を持つことができず、また過去から学ぶということもできなくなるのであります。前項ではそういう内容のことを述べてきました。 

 次にカウンセリングの場面について取り上げようと思います。キレる人に限らず、自己の連続性を失っている人はカウンセリングを苦痛に感じるものであると私は考えています。従って、適応障害圏の人よりも人格障害圏の人の方がカウンセリングを拒むであろうし、継続できないのであります。 

 まず、ある程度心が健康な人である場合、カウンセリングの場に限らず、何か話をしていると連想が働くのであります。連想が働くというのは、そういう形で心が働いているということでもあるのですが、その話から関連する事柄が思い浮かんだり、過去に経験したことを思い出したりするのであります。そうして連想されたことを言葉にしていくと、さらに連想が働いて話が展開していくのであります。このことは、今の自分と過去や将来の自分との連続性があるから可能であると言ってもいいと私は思います。 

 自己の連続性が失われているという感じの人においては、こういう話の展開が見られないのであります。その人は、例えばある一時点の話だけに集中したりするのであります。私が話を広げようとして、例えばそのような経験を以前にもしたことがありますかとか、その話からどんなことを思い浮かべますかといった働きかけをすると、非常に困惑されたりするのであります。今現在から広がらないのであります。だから、今抱えているものをぶちまけるだけという感じの話をすることもあるのです。話が広がったり展開したりということが極端になくなるのであります。だからカウンセリングのような作業を彼らは苦痛と体験することが多いのであります。 

 

(記憶は失われているわけではない) 

 ここで記憶ということが関係してくるのでありますが、連続性を失っている人は過去の記憶を喪失しているといわけではないのであります。そのように見えるかもしれませんが、そうではなく、その人は基本的に過去の出来事は覚えているのであります。ただ、現在の自分との接点が損なわれているのであります。記憶喪失パターンのところで少し述べましたが、過去経験とコンタクトすることが困難であるのです。 

 頻繁にキレて、なおかつ反省感情が生起しないという人と記憶の問題とは一部関連すると私が思うのも上記の理由であります。自己の連続性を失っているために反省が生まれず、なおかつ、過去経験が思い出されないのであります。 

 

(時には思い出させること) 

 連続性が失われているといっても、過去の出来事を完全に忘れているというわけではなく、指摘すると思い出すこともできるのであります。従って、パートナーがそういう感じの人である場合、時々思い出させてあげなければならない場面が出てくるのであります。 

 例えば、夫がそういう人であって、今の会社が合わないから転職する(つまりリセットする)と彼が言ったときに、妻は「一年前にあなたはこの会社で3年頑張ると言ったわ。あと2年頑張ってみてよ」というようなことを言わなければならないのであります。もし、彼がこれまでにもそういう形で転職してきた(リセットしてきた)ということであれば、彼のこの転職(リセット)は次に彼がしんどくなるまでの時間稼ぎにしかならないのであります。彼は同じところに留まったまま進展しないのであります。夫に進展して欲しかったら、妻はそういうことも言わなければならないのであります。 

 この場合、妻の記憶が確かであるということが前提であります。よく思い出して、夫がこういうことを言ったということが確かであること、そうでない限り妻は言ってはいけないのであります。「言った―言わなかった」の不毛な論争に陥ることになりかねないからであります。 

 

(良心) 

 さて、キレた後に反省感情が生じるか否かということから始まって、ずいぶん取り留めなく綴ってきた気がします。すこしまとめておきましょう。 

 キレた当人に反省感情が生じるかどうかということは、それが改善の動機づけにつながるだけでなく、その改善の成否にも関係してくるので、私にとっては非常に重要な観点なのであります。そのために幾分詳細に入り込み過ぎたかもしれません。 

 また、(これは述べなかったけれど)そうした反省感情はその人の「良心」の部分とも関係していると思います。精神分析でいうところの超自我の部分であります。従って、反省感情が生まれるということは、その人が超自我形成をしっかりできていることを思わせるのであります。超自我が自我と同盟を組めばエス衝動をかなり抑止するでしょう。つまり、キレるということを抑止できる可能性が感じられてくるのであります。ただし、この超自我がエスの方と手を組んでしまうといささか厄介であります。それでも超自我形成が不十分であるよりは希望が持てる気がしています。 

 反省感情が生起するためには、キレた時の自分と今の自分との間が連続していることが前提になります。これを自己の連続性と呼んでいるわけですが、この連続性が失われると反省というような感情なり行為は生まれなくなるということであります。 

 そして、自己の連続性が失われるということは、その人は過去にも未来にもつながっていないことを表すので、その人には将来の時間的展望がなく、過去経験から学ぶということもできなくなってくるのであります。 

 このように考えると、反省感情の生まれる人に比べて、それの生起しない人はもっと前段階のものから取り組まなければならなくなることになるわけであります。 

 すでに述べた4つのパターンにこの反省の有無という軸が加わることになるのですが、私にとっては反省の有無の方が重要であります。反省感情の生まれない「例外」よりも、反省感情の生まれる「行動化」の人の方が見込みがあるように思っています。つまり、キレるという問題行動の多寡よりも、反省感情の有無の方が改善に欠かせない観点であると私は考えています。 

 

(追記―自我の強さ) 

 尚、このことを書く機会を失してしまったのでありますが、反省感情の生起はそれ自体苦しいことであります。罪悪感や後悔、恥の感情に苛まれることになるからであります。これを抱えることができるとすれば、その人はそれだけ自我が強いということになるのです。不愉快な感情を抱えながらも自分を維持できるということになるからです。 

 従って、反省感情の生じる人の方がそれの生じない人に比べて、さらにそれを抱えていける人の方が抱えていけない人に比べて、強い自我を有しているということになるわけであります。この点でも、反省感情の生じない人の方が病理が深く、改善への困難が大きいと言えるのであります。反省感情が生まれるには強い自我が求められるのであります。 

 

(追記―キレること自体が連続性の喪失である) 

 また、突き詰めて考えれば、キレるという現象それ自体が普段のその人からの連続性の喪失と見ることができます。従って、連続性を喪失している人はキレやすい状態にあると考えることもできるかもしれません。これに関してはまた後々考えていくことになると思います。 

 

 さて、私たちはキレるパートナーの問題を取り上げています。まずはそれを4つのパターンに整理して、次に反省感情の有無という観点を取り上げました。続いて、キレるという行動が生起する状態について次項より考えていきたいと思います。 

 

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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