2月15日(火):コロナ禍を生きる~心を無視する怠慢さ
今日は定休日である。定休日は休む。その代わり歩く。歩いて体を動かさなければ、そのうち本当に体が動かなくなると思うからだ。すでにその兆候が見られているだけに、ウォーキングを欠かすことはできない。
今日は京都の河原町へ出る。用事があるからなんけれど、その用事を終わらせると、しばらくその周辺を歩いた。前半は良くても、後半は不要不急だな。まあ、人と会うこともないし許してもらおう。黙って通りを歩くくらい構わないだろう。
京都の繁華街だけれど、ここを歩くたびにだんだん寂れていっているなと感じる。シャッターを下ろしている店舗が前よりも目立ったように思う。やはりその数が増えているのではなかろうか。それを実感する。
第5波の時よりも、第6波の方が寂れている。第7波が来ると壊滅状態になるのじゃなかろうか。この調子では日本はコロナに敗北すること間違いなしだ。
病は気からである。感染症とてそれは同じである。感染するしないは別として、発症するか否か、重症化するか否かに関しては心の持ちようが大きく作用する。大槻憲二先生は、ずいぶん昔の人だけれど、感染症に精神分析を応用した人だ。僕は感染症に精神分析を試みたいとは思わないけれど、その理論には大いに賛同している。生きる意志が何よりも大切なのだ。
今、コロナ禍である。発症しても病院に入れないという状況がある。そこで重症化リスクの高い人だけを入院させるとすればどうなるだろうか。病院に入ることができたということは、幸運なことではなく、不幸なことになるかもしれない。つまり、入院できたということは自分は重症化のリスクが高いのだと、そう思い込んでしまうかもしれないのである。そして、重症化が現実のものとして恐れられるようになると、それが実現してしまう可能性が高くなる。あることを恐れるということとそれを望むということは、無意識の世界では一致してしまうからである。
従って、軽症者もすべて受け入れる病院よりも、重症化するリスクの高い人だけを受け入れる病院の方が重症化率が高くなる、ということになる。あくまでも可能性の上での話であるが、やはりあり得ることなのである。大槻先生の本には結核患者の療養所(だったと思う)でそのような例が挙げてある。
病院であれ施設であれ、ここに入ったからもう大丈夫だと思えるよりも、ここに入ったらもう終わりだと思ってしまう方が、生きる意志を削ぎ落してしまうものである。
コロナ感染の病床数を増やしてこなかったことの弊害がこういうところにも現れるのである。
閉店・廃業もまた然りである。コロナで経営できなくなった人たちは生に失望したことであろうと思う。経営する人だけでなく、そこで働く人たちもだ。この失望が生きる意志を削いでしまうと、感染症の観点に立てば、重症化リスクを高めてしまうと言えるかもしれない。つまり、生きていけなくなる人が増えれば増えるほど、重症化率が高まるのである。
こういう説は心理主義であると批判されるところのものであることは僕も認めるのだけれど、心理主義の説にも一理あるのではないかとも思うのである。むしろ、政府や専門家は心や精神のことを無視しすぎていると僕は感じている。心理主義にまで陥らなくとも、もう少し心理学的な観点も取り入れてほしいところである。まあ、それはさておくとしよう。
先述の話を続けよう。従って、補償を十分にしないということは、間接的にであるが、重症化率を高めることになるのである。すべて政府の怠慢である。
加えて、まん延防止重点措置である。まん防が期限内に効果を表したことなど一度もないのだ。必ず延長するか、緊急事態に発展するのだ。今、感染者数が増えているけれど、この感染者はまん防発出以後の感染であるはずである。まん防などまったく効果がないということがこれを見ても明らかである。
一月の末時点で、まん延防止ではなく、緊急事態のような強い措置を施行していれば、二月半ばの今頃は感染者数が減少していたかもしれないし、ピークアウトが見え始めていたかもしれない。ダラダラと感染が広がるのも政府の怠慢である。ダラダラとした措置しか施行しないからである。
感染の波が来ることではなく、一旦生じた波をいかに速やかに収束させるかが鍵である。波が来てから、波が来る前の対応をしているので、どうしようもなくなるのだ。
ともかく、第6波は第5波以上に厳しい状況である。第7波は今よりももっと厳しい状況になるだろう。波が来ても大丈夫だと安心できている人がどれほどいるだろうか。安心欠如する人ほど重症化してしまうだろうと僕は思っているわけであるが、安心を提供できない政府はやはり怠慢だと思わざるを得ない。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)