<テーマ121> 思考のプラスとマイナス
(121―1)プラス思考したがる人たち
一部のクライアントたちは、自分はプラス思考をしなければいけないと信じているようです。また、認知療法や論理療法、果てはストア派の哲学をプラス思考をすることだと捉えている方々もおられるようです。私から見ると、それはまったくの間違いなのです。
私自身、プラス思考というものがよく分かっていないので、それを口にする人に対しては「あなたの言うプラス思考とはどういうことですか」と尋ねることにしています。私が受け取った答えをまとめてみると、大体、プラス思考とは次のような思考を指すらしいです。
「プラス思考とは、積極的で、前向きで、楽観的な思考」ということになるようです。もちろん、正しい定義からはズレているかもしれません。
一方、マイナス思考というのは、上記の言葉をすべて正反対の言葉に置き換えたものとなるのでしょう。それはつまり、「マイナス思考とは、消極的で、後ろ向きで、悲観的な思考」ということになるのでしょう。
でも、それは本当なのでしょうか。定義上の問題はさておいても、プラス思考をすることが果たしてそれほど望ましいものなのでしょうか。私には疑問なのであります。
(121―2)プラス思考志向の友人
私の昔の知人でしたが、「自分は常にプラス思考をするようにしている」と豪語されていた人がありました。プラス思考という言葉を耳にする度に、私は彼のことを思い出します。
その彼ですが、自らプラス思考をしていると断言しているわけですけれども、私から見ると、単に能天気なだけで、人生の中で起こりうる可能性がある様々な否定的側面から目を背けようとしているようにしか映りませんでした。詰まる所、都合の良くないことは否認したいというのが、彼の言うプラス思考になるのでしょう。
それで彼の生活はどうなっていたかです。確かに平和に生きていたようでした。むしろ安楽に生きていたと言った方が正しいかもしれません。ただし、人間として深みに欠ける人でした。彼の周囲の人たちは、彼のことを、単に面白い人間としてしか見ていませんでした。面白いというだけの価値しかないのです。そして、悲しいことに、彼のことを信頼のおける人だとみなしている人は皆無のようでした。
プラス思考をしたがる人というのは、この友人のイメージもあるせいでしょうが、どこか薄っぺらな人間だという印象をどうしても私は受けてしまうのです。
(121―3)思考にプラス・マイナスがあるのか
ここで素朴な疑問が私に生じます。その疑問とは、果たして、人間の思考にプラスとかマイナスとかいう区別があるのだろうかということです。
誰がそういう判断を下しているのでしょうか。これはプラスに該当するとかマイナスに数え入れるべきとかいうような、客観的な判断基準というものがあるのでしょうか。判断する人は、そういう客観的な判断基準と自分の思考とを照合した上で、これはプラスだとかマイナスだとか述べているのでしょうか。
私の見てきたところでは、どうもそうではないようです。そのような判定者はいないということです。また判断基準となるようなリストも存在しないようです。
このリストとは、例えばこのような状況で、このような立場に立たされた時には、こういう思考様式はプラスと見做しうるとして挙げられているとか、この場合、マイナス思考はしかじかのものであるとリストにされているとかいう類のものです。私の狭い経験では、このようなリストを私は見たことがないのです。
つまり、自分の思考がプラスかマイナスかということは、他でもないその人自身が判断していることがほとんどのようです。実際、そのことを指摘してみますと、確かに自分でそう判断していると認識されている方も少なくありませんでした。
判定者はその人自身なのであります。そして、その人は、その時、その場面において、マイナス思考してしまっているということが、自分の「心の問題」の原因だと捉えておられるようなのであります。果たして、この考えは正しいのでしょうか。このことは後で取り上げることにします。
(121―4)思考を思考する無限地獄
私にはさらにここで次のような疑問を覚えます。それは「プラス思考をしていると判断しているその思考自体はプラス思考になるのだろうか」というものです。
つまり、「プラス思考をしている」ということを思考しているその思考そのものを今度はプラスかマイナスかを判定しなくてはならなくなるのではないかということです。言い換えると、「プラス思考をしなくてはという思考はプラス思考か」ということになります。
こういう考え方をすると、常にその思考がプラスであるかマイナスであるかを判定しなければならなくなるという、永遠に尽きることのない思考の渦にはまり込まざるを得なくなるのです。
ある人が「プラス思考をしなくては」と思考します。その「プラス思考をしなくてはと思考している」思考をプラスかマイナスか判定しなくてはならなくなります。そして「プラス思考しなくてはと思考していると思考している」その思考がプラスかマイナスかを判定しなければならなくなります。これが延々に続くことになるのです。「プラス思考をしなくてはと思考している思考はプラス思考であるかと思考している思考はプラス思考であるかと思考している思考はプラス思考であるかと思考している・・・・・思考はプラス思考か?」ということになっていき、これはどこにも辿り着くことのない思考なのです。
頭が混乱された方のために違った例を挙げましょう。私も頭が混乱してきました。例えば、ある製品の良否をチェックする機関Aがあるとします。しかし、その製品が本当に良い品であるかどうかもっと確証しようとすれば、そのチェック機関Aをチェックする機関Bが必要になります。しかし、これでも結論が出るとは言えないのです。例えば機関Aと機関Bが裏で癒着しているなどということもあり得るからです。そこでチェック機関Bをチェックするチェック機関Cが必要となります。こうして、製品をチェックする機関Aをチェックする機関Bをチェックする機関Cをチェックする機関Dをチェックする機関Eをチェックする・・・・・という具合になるということです。
従って、このようなやり方はどこまでいっても結論がでない方法なのです。
実は、こういうことはサルトルが既に述べていることなのです。人間が自己反省する時は常にこのような無限に続く思考に陥る危険があるのです。
人間が単独で自己分析することの限界もこの点にあると私は考えております。しばしばどこにも辿り着けない思考に私たちは陥ることがあり得るのです。
プラス思考で生きようとする場合にも、この危険性はあるということなのです。
(121―5)無限地獄からどうやって抜け出るか
このような無限に続いて、どこにも辿り着けない思考から、人はどのようにして抜け出すべきでしょうか。
再び製品をチェックするという例で考えましょう。先述の例ではチェックが無限に続くことになります。いささか強迫症的なやり方でした。
このやり方に陥らない一つの方法は、同じ製品を機関Aも機関Bもチェックするということです。さらにその同じ製品を機関Cや機関Dもチェックするのです。同じ製品を様々な観点からチェックするわけです。こうすればその製品が本当に良い品であるかを、より適切に判断できるのです。
先日訪れたあるクライアントに、カウンセリングを受けてみていかがでしたかと尋ねたところ、その人は「いろんな角度から自分を眺めたような気がする」と答えられました。私はそれでいいのですと応答しました。その思考がプラスかマイナスかをチェックするよりかは、多面的に見ることの方がはるかに望ましいものが得られるからであります。
(121―6)心の葛藤
さて、別の角度からプラス思考問題を考えてみることにします。あるクライアントは「もっとプラス思考しなくては」と語ります。その時、否定されているのは、自分のマイナス思考なのでしょうか、それともプラス思考できない自分自身なのでしょうか。その辺りは当人自身にもはっきりしていないようです。
さらに次の点も考慮しなければならないことです。その人が「自分はもっとプラス思考をするべきだ」と主張される時、その人は自分の中のマイナス(と当人に見做されているもの)と格闘しているということです。この格闘について述べていきます。
クライアントはまずこの格闘に敗北されるのです。そして、プラス思考ができなかったということで自分を責めるのです。プラス思考ができなかったがために、その人はプラス思考をもっとしていかなければと思うわけです。
そこで、この格闘に勝利することがどういうことであるかということを考えなければなりません。クライアントは敗北は経験しているけれども、それに勝つということ、つまりマイナス思考を退けてプラス思考を達成したということは体験されていないのです。でも、実はこの勝利は誰も経験することができない類のものなのです。
まず、押さえておかなければならないのは、この勝利というのは、私たちが競走で勝ったとか、テストの点で勝ったという時に体験されるものとはかなり質が異なるということです。なぜ異なるかと言えば、そこに競争相手がいないからです。先述したように、マイナス思考をしていると見做しているのも当人自身であり、プラスかマイナスかを判定しているのも当人自身であり、プラス思考と見做しているものを実現しようとしているのも当人自身であるからです。現実の勝負事のように相手が存在している勝負ではないのです。その人の内面において、内的に交わされている格闘なのです。そして、内的な葛藤というものは、そういう相手のいる勝負事のような形で勝利を体験することはないものです。
マイナス思考をしてしまう自分を変えて、もっとプラス思考をしなければいけないという、この内的葛藤に勝つということは、プラス思考そのものが消失することなのです。
マイナス思考をしていた人が、もっとプラス思考になろうとして努力します。もちろん架空の例です。そこでそれが達成されたとします。するとその人にどういうことが起きると思われるでしょうか。
プラス思考を達成したとなれば、もはや自分がプラスかマイナスかを判定する必要がなくなるのではないでしょうか、なぜならその人は既にプラスを達成したわけであるからです。判定する必要がなくなるということは、その人の中にプラス思考とかマイナス思考とかいう概念そのものが消失することにならないでしょうか。
例を変えて考えてみましょう。もっと背が高かったら良かったのにと思うのは、背が低い人です。でも、低かったその人が成長して背が伸びていくに従って、「もっと背が高かったらいいのに」という観念はその人からなくなっていくものです。それと同じことなのです。
(121―7)逆説
従って、ここに一つの逆説が生じているということになります。それは、「プラス思考をしなければ」と考えているうちは決してプラス思考を実現することができていないという逆説です。
視点を変えて同じことを述べるなら、人が「プラス思考しなければ」ということに囚われなくなった時には、その人は「プラス思考」を実現しているということです。
背が高かったらいいのにと願う人は背の低い人であると先述しました。身長160センチの人は身長が170センチあったらいいのにと願うでしょう。でも、その人の背が伸びて身長170センチを達成すれば、身長が170センチあったらいいのにというかつての願いは消失しているでしょう。
それと同じことです。私はそう捉えております。だから、プラス思考というものが仮にあるとしても、私たちは誰もそれを獲得したという体験をできないのです。獲得した時には、それは消失しているのです。
(121―8)本項の要点
プラス思考についてはまだ述べたい事柄があるのですが、分量が多くなりそうなので、次項へと引き継ぐことにして、本項は一旦ここで閉じることにします。そこで、本項の要点を繰り返しておきます。
まず、プラス思考、マイナス思考というものがどういうことを指すのかを述べました。定義をしてみました。そして、この思考は、内的な葛藤を引き起こす類の思考となるということに話を進めました。
最後に、プラス思考を達成するということは、プラス思考という観念が消失することだという逆説に到達しました。従って、誰もそれを達成したという体験をしないのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)