9月1日:書架より~『愛情の心理学』 

9月1日(金):書架より『愛情の心理学』 

 

 ミステリに関しては<ミステリバカにクスリなし」シリーズで、その他の本に関しては「唯我独断的読書評」でやってきたことを、さらに分岐させて、心理学や哲学などの専門書は<書架より>で取り上げていこうと思う。 

 ただし、専門書は、必ずしも、1ページ目から最終ページまでを読むとは限らない。必要な論文だけを読むというパターンも多いので、取りあえず、一冊分読んだものから取り上げていこうと思う。 

 今回取り上げるのは、次の本である。 

 

テキスト 

『愛情の心理学 フロイド選集14』(高橋義孝 訳 日本教文社) 

 

 僕がフロイトを読み始めた頃は、フロイトの作品集と言えば、日本教文社版の「フロイド選集」と人文書院版の「フロイト著作集」しかなかった。日本教文社の方が古く、絶版状態になっていたけど、コンパクトさの点で、人文書院版よりも僕は気に入っている。 

 例えば、「フロイド選集」では、「精神分析入門」が上下巻に分かれ、さらに別に「続精神分析入門」が出されているが、「フロイト著作集」ではこの3冊が1冊に収められているといった具合である。人文書院版の「フロイト著作集」は、内容量が豊富であるが、そのために重たいのである。これが難点だった。 

 さて、ここで僕が読むのは、日本教文社版の「フロイド選集」の第14巻『愛情の心理学』である。長短8篇の論文が収められている。 

 下手に要約したり引用したりすると著作権の問題に引っかかりそうなので、例によって例のごとく、読後の僕の感想などを中心に書いていく。 

また、フロイトの論文というのは、内容が豊富であって、簡潔に要約することが難しいという印象を僕は抱いている。だから、僕にはそれの要約はできないし、僕が気になったところなどを拾い上げる程度しかできないだろうと思う。 

 では、最初の論文から読んでいこう。 

 

1「『文化的』性道徳と現代人の神経過敏」 

 エーレンフェルスの分類した二つの性道徳、自然的性道徳と文化的性道徳を踏まえて、フロイトは文化的性道徳が現代の神経症にどれだけ影響を及ぼしているかを論じ、「現代の文化的性道徳は、それがわれわれに課している犠牲に見合うだけの価値を持つものかどうかという疑問を呈出せざるを得ない」と結論する。 

 フロイトの時代は性に関する禁圧がすごかった。性の悩みを抱える人は、おそらくどこにも相談できなかっただろう。医師に相談しても、例えば自慰を止めなさいなどと禁止事項を課せられるだけだったかもしれないし、牧師に相談しても、それはとてつもない罪だと言われるだけだったろう。そんな中で精神分析医だけはこの問題を真剣に取り上げてくれるとなれば、性に関する問題を抱える人たちは精神分析医のところに押しかけたことだろうと僕は思う。 

 それはさておき、フロイトのこの種の論文はきちんと読まないと、とんでもない誤解に発展するだろうと思う。確かに、性に厳格なタブーが課せられれば、青年たちは性に関して過敏になるだろうし、不安に思うだろう。女性は貞淑が求められ、性に関して無知なまま結婚生活に入る。いわば結婚の準備ができていない状態で結婚してしまう。女性たちはこれで性の抑圧から解放されるかと期待するが、性的に満足させてもらえるのは、結婚後の数年だけである。妻たちは再び貞淑であることを求められる。男性もまた性的能力を有していながら、それを抑圧しなければならなくなる。 

 本論文の最後の段落で、民族の性的活動の制限と、それによってもたらされる民族の衰退の経緯が述べられている。いささか極端な話という気がしないでもないけど、理論的にはあり得ることでもある。 

 こうした説は、好きな人と好きな時に自由にセックスしていいんだといった歪んだ性解放の後ろ盾にされてしまうだろうけど、フロイトはそこを論じているのではなさそうである。 

 フロイトが取り上げているのは、文化的性道徳によって阻害される性の成熟という点にあると僕は思う。性の解放を謳っているわけではなく、性の成熟を論じているのである。ここを間違えてしまう人も多いのではないかと僕は思う。 

 

2「ヒステリー症者の空想と両性具有に対するその関係」 

 妄想もヒステリー性空想も、その源泉は青年期の白日夢である。この白日夢は性的な性質を持つものである。これらの白日夢は、意識されているものもあれば、無意識のものもある。空想は、初めから無意識である場合もあるが、最初は意識されていて、後に抑圧によって無意識化されるのがふつうである。無意識化された空想は神経症症状となって現れることもある。また、無意識の空想は、その人の自慰に用いられた空想と一致するものである。 

 自慰的・空想的満足を断念すると、この空想は、無意識的空想になる。この人が他の手段で性的満足を得ることができない、つまりリビドーを昇華できない場合、この無意識的空想が活気づけられ、空想内容の一部分が症状として外化する。ヒステリーの症状とは、身体化された無意識的空想である。 

 これらの精神分析の知見に加えて、本論文では、こうした無意識的空想、自慰的空想が両性具有的であることを指摘する。この空想は、一方では男性的な性格を持ち、他方では女性的な性格を持ち、それらが一つになっている。精神分析によって、一方の性格だけが意識化されても治癒されないのはそのためである。もう一方の性格も意識化される必要がある。精神分析においては、症状の両性的意義を忘れてはいけない。 

 こういう精神分析初期(1900年の『夢判断』を誕生の年とするなら)のフロイトは簡潔で分かりやすい。フロイトは初期のものから順番に読んでいくのが一番いい。 

それはさておき、空想が両性的であるという指摘は教えられるところが多い。僕の受け持ったクライアントで、権力を手中に収めるという空想を持っていた男性がいたけど、彼のこの空想にも両性の要素が入っていたのを思い出す。一方では、敵を押しのけ、男性的に突進して権力を手に入れるという軸があり、他方では、手中にした権力で自分が安全に守られるという女性的な軸があった。彼は女性的な軸の方にはまったく無関心だったが、彼が権力を求めることよりも、本当は何かで自分が守られていたいということの方を意識するようになると、この空想はより穏やかなものになっていったのだった。 

 フロイトはそれを1908年の時点で言っていたのだから、やっぱりスゴイ。 

 

3・「『愛情生活への心理学』への寄与」 

 この論文は、一つのまとまった論文と見るよりも、愛情生活(夫婦生活)に関する3つのトピックスから成っていると見た方が良さそうだ。各々の章はそれ自体独立して、完結しているという印象を受ける。 

 第1章は男性の愛人選択の特殊なある1タイプについて考察する。 

このタイプは次の二つの条件に分けられる。一つは「侵害された第三者」と言えるもので、夫や婚約者、恋人のいる女性だけを選択するものである。その女性がフリーの時は魅力を感じないのに、誰かのものになった途端に魅力を覚えるというものである。常に三角関係の中で恋愛をしてしまう男性のことである。 

 もう一つのタイプは「娼婦愛」と呼べるもので、性的にふしだらであったり、あまり貞節でないような女性だけを恋愛対象に選んでしまうというものである。 

 どちらのタイプも母親固着によるものであることをフロイトは明確にしていく。母親とふしだらな女とがどのようにして同一化されるかという論旨の展開はお見事としか言いようがないくらいだ。 

 第2章は性愛対象の蔑視に関しての考察である。愛情(リビドー)には二つの流れがあるとフロイトは仮定する。「愛情的」な流れは生まれながらにして持っているものであり、その後、思春期頃から「官能的」な流れがこれに合流する。男性は母親固着を断ち切って、二つの流れを統合しなければならない。しかし、現実の拒否や固着対象の魅惑の度合いなどによって、この統合が行われないと、愛情生活が未発達になる。リビドーが現実に背を向け、空想活動に委ねられることによって、最初の幼児期性愛対象の像が強化され、この像に固着してしまうからである。そして、こうした愛情分裂を持った人が利用する手段が性愛対象を心理的に蔑視するということである。 

 やはり、性衝動を好きな時に好きなだけ放出したらよいなどとフロイトは言っていないのである。「性愛がやすやすと満足させられる時代には、愛は無価値となり、生活は空虚であった」と述べるように、性は野放しにされてはならず、それに対抗する力があって、愛に意味が付与されるのである。電気が良く流れるためにはある程度の抵抗がなければならないのと同じである。 

 第3章は処女性のタブーについてである。未開民族では、男子に割礼の儀式があるように、女子に処女膜破瓜の儀式がある。どうして処女であるということがタブーなのか。それを血のタブー、不安、性交が有するタブーなどとの関連で考察する。こういう文化人類学的な資料と考察を提示した後、現代の(当時の)西欧社会の状況を見ていく。 

 現代の文明社会では破瓜の儀礼など行われないので、女性の処女膜は最初の男性によって破瓜されることになる。女性にとって、これは疼痛と心理的な辛苦の体験となる。この場合、女性は破瓜した男性に敵意を抱くようになる。破瓜の儀式とは、花嫁の敵意から花婿を守るためにあると考えられ、それによって夫婦関係を平和的に維持していこうという目論見があるということが窺われる。 

 最初の男性に敵意を抱くのであれば、初婚で失敗した女性が再婚した場合、彼女はそういう敵意を持っていないから、上手くいくだろうと思われる。でも、そうでもないようである。いくら他の男性に愛情を向けようとしても、彼女の中で、最初の男性が割り込んできて邪魔をする。こういう女性は、もはや愛情からではないが、最初の男性に隷属しているのだとフロイトは言う。そして、彼女たちがその隷属から抜け出せないのは、彼女たちがその復讐を完全には終えていないからだと結論する。僕はすごく納得できる。 

 女性の性的発達のプロセスなど、いささか首肯できない理論も展開されるが、全体的に見て、興味深いテーマを取り上げているように思った。1910年、12年、18年にそれぞれ執筆されたもので、100年も前の論述なのだけど、現代の我々とまったくかけ離れたことを述べているようには思われなかった。やっぱりフロイトはスゲー。 

 

 分量が多くなったので、ここで項を改めます。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

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