2月1日(火):なんだか疲れる
今日は定休日だ。一応、高槻には出るつもりでいるが、朝は少しゆっくりした。
テレビのワイドショーで代行業者のことを放映していた。コロナ禍でニーズが増えているらしい。自宅療養中の買い物などを依頼されるようだ。
生活必要品の買い物の依頼はまだ頷けるのだけれど、嗜好品や趣味の品物になるとどうも賛成できない。依頼されると代行業の人が買い物に出ることになるわけだ。その人たちのリスクが高まるからだ。自分のために他人をリスクにさらしてもいいという感覚を僕は見てしまうのだ。
嗜好品や趣味の品は諦めたらいいのにと思う。少しの期間のことなのだから。僕はそこに現代人の病理を見る思いがする。断念することが良くないことであるような風潮があるように僕は思うのだ。夢は絶対に叶えないといけないとか、あるいは夢は諦めてはいけないみたいな雰囲気である。欲しいものは手に入れなければならないとか、なりたい自分にならなければならないとか、そういう風潮である。
諦めるということが許されないとなると、それは相当厳しい生になる。それもただ厳しいだけの生き方である。
しかし、検査でも陰性で、濃厚接触というだけで自宅待機している人は、ちょっとした買い物くらいしてもいいのだ。コンビニで要るものを買うくらいはどうってことないのだ。誰とも言葉を交わさないようにして、さっさと行って、さっさと帰ってくるようにすれば問題はないように思う。
家を出る。役所に寄らなければならない。使用済み電池を処分するためだ。
役所の入り口のところでおばあさんが立ち往生している。邪魔やなあと思うのだけれど、僕はおばあさんの脇をすり抜けて中へ入る。すると、「ああ、そこが入り口なの」ってばあさんが呟くのが聞こえた。
入り口の真ん前まで来ておいて、入り口が分からなかったのか。微笑ましい話だけれど、ある種の真実を伝える。近すぎて見えないということがあるのだ。すぐ間近にありすぎるために見えないということが。自分にとってもっとも身近にありすぎるものこそ、案外わからないものである。
それから駅へ向かう。公園の脇を通り過ぎるのだけれど、公園には母子が多かった。保育園や幼稚園の休園が影響しているのか、いつもより子供の数が多いという印象を受ける。
子供たちは元気よく遊んでいる。これからの日本を支える世代とは思えず、これまでのツケを払わされる世代としか僕には思えない。子供たちを見ても日本の未来は期待できなくなっている。無邪気に遊んでいる子供たちを見て、可哀そうに感じてしまう。
高槻に着く。職場入りする。室内の整頓と清掃をして、勉強する。サイト作業はあまりできず。あと、室内でできるだけ体を動かす。体操とかストレッチとかする。先日痛みだした膝の痛みは、今は少しだけ感じるけれど、ほとんど痛みはない。動かせるようになったら動かさないと。日に日に体が動かなくなっていくように思われている。
そして、外がやたらと騒々しい。どうも隣ビルのカメラ屋さんの廃物回収業者のようだ。積み方が悪いとか、積みすぎやとか、やたらと一方が他方に文句を言うわけだ。もう少し静かにやってくれんかいなと思う。まる聞こえだ。
大声で喚けば、マスクしていても、飛沫が飛ぶだろう。怒鳴ってるやつは飛沫まき散らしているだけだ。彼が感染者だったら、そこを通る人たちは飛沫にさらされてしまうわけだ。そんなところから感染が起きるかもしれないのに。無思慮な人には困ったものだ。
夜には帰宅。どっと疲れが出てきた。夕飯を食べた後にそうなった。床にごろ寝する。コロナかと心配になる。でも熱はない。1,2時間ほど横になるとすっかり回復した。なんだか疲れた一日だった。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)