5月24日(水):女性論
今日はそれなりに仕事が入っていた。それなりに忙しい一日だった。明日からも同じような感じであるが、月末作業が割り込んでくるので、やや多忙感が増す。それで、飲むなら今日だ、ということで夜は飲みに行く。
珍しく、女性がいる店で飲んだ。なかなか愛想のいい女性がついてくれたのはラッキーだった。飲みに行って、久しぶりに楽しい経験をした。それから帰宅するまで、頭の中で、僕の女性論を展開していた。
好きな女性のタイプは、と訊かれる。これはよく訊かれる問いだ。あまり拘りはないと僕は答える。これは半分真実の答えである。でも、本当は、密かに、好きなタイプというか、条件というか、そういうものがある。
ルックスやスタイルは特に拘らない。まあ、太すぎず、細すぎずくらいの好みはあるが、それも絶対的なものではない。
僕の場合、女性の一番の条件は、オトコをよく知っているということである。男性も女性も、異性のことをよく知っているという人は「大人」に見えるものだ。ちなみに、その意味では、僕は全然「大人」に見えないだろうな。
異性を知っているといっても、それはセックスの話に限らないということは言うまでもない。
今日のクライアントにもそういう人がいたのだけど、異性を知るということはとても重要なことだ。上手く行かない夫婦を見ていると、夫がオンナを知らなかったり、妻がオトコを知らなかったりする、そう思えるケースも多い。
また、異性を知っているようで、実はただの偏見であるというケースもある。異性を知るということは、とても難しいことである。
交際する女性は処女でないとイヤだという男がいた。僕は真逆である。付き合う女性は処女だけはイヤである。世の中、上手くいかないもので、処女と交際したいという彼に処女はつかず、処女はイヤだという僕に処女がつく。
僕が交際した女性で処女だった人がいた。「その辺で処女を捨ててこい」と、僕は平気で彼女に言う。これはきちんと説明しないと、ひどい男だと思われそうだ。
女性の場合、初体験で痛い思いをすることがある。その場合、痛みとセットで僕が彼女の記憶に残るのがイヤなのである。自分に痛みを与えた人間が、自分の愛する人になるなんて、女性にとっては悲劇であるように僕には思えてならないのだ。そうなりたくないだけのことである。
女性の社会進出ということが謳われるが、僕は反対である。条件が男性と同等であれば、女性は、放っておいても、社会進出するだろう。それを阻んでいるものをそのままにしておいて、社会進出だけ推奨されるのはどうかと思うのである。
それに、この考えの納得いかないところは、「子育て」と「社会」が分離されているところである。「子育て」は、それ自体社会活動であり、社会貢献なのである。子供を産み、育てる、それは立派な社会活動である。だから、女性は、今も昔も、社会進出してきたのだと僕は考える。
誤解されたくないので、もう一度繰り返そう。男は外で働き、女は家を守り、子育てするといった、一昔前の規範に基づいて僕は述べているのではない。外で働く男は社会に進出しており、家のことと子育てをする女は社会進出していないかのような思想に僕は反対しているのである。かつての女性はそのような形で社会進出していたのだというように僕は考えているわけである。
従って、女性の社会進出の姿が変わるのは別に構わないのである。望ましい部分もあると思う。「社会」と「家事」「子育て」の解離が問題であると僕が感じているだけのことである。
もし、子育てが社会活動、社会貢献、さらには社会的事業であるといった観点を持たなければ、子育てなんてマイナス以外の何物でもなくなるのではないかと、僕はそんな思いに駆られることがある。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)