4月6日(木):僕の正当化
そろそろうちの近所でも桜が開花している。駅の辺りもそうで、春らしい気分になる。桜の花を写真に撮る人たちもちらほら散見する。写真を撮るのはいいのだけど、僕が写ってしまわないようにと、僕は気を使ってフレームの外に出ようとする。するとこちら側でも写真を撮っている人がいて、今度はこの人の写真に写ってしまいそうだと気にしてしまう。手軽に写真が撮れるというのも便利でいいことであるが、僕としては少々困りものではある。
京都は観光客が多いので、あちこちで写真を撮る外国の方々がおられるのだが、同じように、僕は気を使ってしまう。外を歩くのも、この時期は特に、神経を使う。まあ、気にしなければいいのだろうけど、僕の性格として、気にしてしまうのだ。
そして、春と言えば、営業である。いろんな業者さんからの営業が来る。もうじきそれが増えてくるだろう。フレッシュマンたちが初々しい営業をしてくる。フレッシュでいいねとは思う。でも、彼らには悪いけど、僕は「いい人」などと思われたくないので、ビシッと断る。キツイ断り方をすることもあるので、悪しからずである。
この時期の営業ラッシュには毎年ウンザリするのである。相手をするのも面倒なのだ。そりゃ、一件くらいなら問題はないし、丁寧にお断りすることもできるのだけど、これが一日に何件もあると、いい加減にしてくれと言いたくなるってものだ。その都度、作業を中断して、時間を割くことになるのだから。
今日はサイト作業を少し前に進めた。他に、ミステリも短篇をいくつか読んだ。仕事の方はほどほどである。恐らく、連休まではこんなペースで続くだろうな。一日をとにかく充実させるということが僕の目標だ。少しでも前進するということが大切だ。停滞は僕の死を意味する。大げさに聞こえるだろうか。本当にそんなふうに感じる。
僕にとって、本当に恐ろしいのは、時間が止まることだ。もちろん、それは客観的な測定可能な方の時間ではなくて、僕の中で主観的に体験されている時間だ。何かに夢中になって、時間の経つのも忘れているっていうのは、時間の停止ではない。そうではなく、活動が停止して、僕の存在がモノと化することだ。
こんなことを言うのは失礼だけど、最近は、「重たい」人がよく来るようになったな。他所で上手くいかなかった人たちだ。他所でダメなら、僕の所でもダメである。それは彼らの中に、根本的に間違っているものがあるからである。それが何とか修正されれば、その人には「治癒」の道が開かれると僕は考えているのだけど、そこに取り掛かれない限り、彼らはあちこちの臨床家を巡り続けることになると僕は考えている。
夜、パソコン内のデータを外に出す。3月分の面接録音等をディスクに移し、パソコン内のものは消去する。
消去する前に、先月末ごろに立て続けに行動化を起こした数人のクライアントの面接を聞き直してみる。聞き直すと言っても、全部を聞き直すのは時間がかかるので、所々を拾って聞き直してみる。聞き直してみて、僕は必ずしも自分が間違っていないということを確信した。公平に言おう。間違っている部分もあるし、相手に上手く伝わらなかった部分もある。でも、全体としては、そんなに悪くはないということを確認した。
僕は彼らの自我と同盟を組もうとした。彼らの自我機能を僕が代理してきた。彼らは行動化を起こすが、それでも以前よりも自我が働いている人もある。結果的に以前と同じことが繰り返されていたとしても、少しでも自我が機能しているのは前進している証拠である。
彼らは、基本的にエス優位だ。自我は機能せず、容易にエスに支配される。超自我もやはり働かないか、エスに奉仕する形で機能する。両者に対して自我は無力である。僕はその自我に味方をし、自我を強化し、時には自我機能の代理をしている。上手くいっている所もあれば、そうでない所もあるが、目指している部分はブレていない。
エスが優位になるということは、超自我はその抑制として働かないし、自我は葛藤の場にならないということである。彼らは葛藤する代わりに、エスに身を任す。その彼らの自我が葛藤を経験するようになっているので、確かにしんどい体験を彼らはしているのである。それは僕にもよく分かる。そして、ここを乗り越えなければいけないのだ。再び自我あるところにエスを置くようになってはいけないのだ。エスであったところに自我が位置しなければいけないのだ。
これに耐えられないといって、行動化を起こすわけだ。ああ、勿体ない。一人の人はかなり安定した時期を過ごしてきたのに、一日でその成果をすべて台無しにしてしまう。それがエス優位の行動なのだ。
僕が彼らのエスと同盟を組む。彼らにとっては、その方が心地いいはずである。自分にピッタリとフィットするように感じるかもしれない。しかし、エスを支持すると、ひどく退行してしまう可能性が生まれる。彼らのような人は、この退行をあまり促進してはいけないと僕は考えている。自我を支持することで、この退行を防ぐ必要があるのだ。もし、彼らが退行すると、おそらく、最初期の段階まで退行する可能性があるので、そうなると日常生活さえままならなくなってしまうだろう。やはり、それは避けるべきだ。
彼らの自我は、それなりに働くようになっている。まだまだ弱いかもしれないけど、働き始めているように僕には思われる。強すぎるエスがその人を支配すると、やはり現段階では自我が負けてしまうだろう。まだまだ途上だったのだ。それでも、微弱ながらも自我が働いている個所が見られるのだから、それは進歩である。この進歩を見なければいけないのだ。もちろん、自我によって見ることができなければならないのだ。
エスが優位になる。エスだけなら、それこそ動物の暴発行動のような行動化になるだろう。ここに超自我が加担する。超自我はエスを抑える方向には働かず、エスに従う。従って、この人の攻撃は、エスによる攻撃に加えて、超自我による「断罪」が加わる。だからものすごく強烈なものになるのだ。僕も、それが分かっていても、ダメージをかなり喰らっている。
この強烈さというのは、一般の人の想像を絶するかもしれない。一人のクライアントの過去経験であるが、この人は若いころに塾の先生にこの種の攻撃をしたことがあった。面倒見がよくて、評判のいい先生らしかったが、この人の攻撃に曝されて、この先生は塾の講師を辞めてしまったと言う。この人はこの先生を廃業に追い込んだのだ。それでも、この人は今でもあの先生が悪いと信じているわけだ。超自我が働かないから、それに対して反省も後悔もない。当然のことをしたと、この人は信じているのだ。エス優位の攻撃に超自我が加担するとはそういう感じなのである。
ああ、こんなことを書いている自分がつくづくイヤになってくる。これを読んだ人は僕が何を言っているのかチンプンカンプンではないかと思う。誰にも通じない話を長々と続けて、それでも僕は自分を正当化しようとしている。細かな点を見ていけば、僕も間違っているところがあるのは認めよう。それでも全体的に見れば、僕はそれほど間違ったことはしていないと自負している。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)