3月19日(日):残念である
今日は朝のうちにいくつかの雑用をして、午後から仕事をする。その後は勉強と書き物をして過ごそうと考えていた。
夕方。明日のクライアントからキャンセルがあった。キャンセルではない。中断の申し出だ。もう来たくないというのなら仕方がないけど、明日を最後にしてはどうかとも勧めてみた。
昨日、この人のことをずっと考えていた。この人に対象恒常性の概念をどうすれば伝わるだろうかと、頭をひねっていた。一応、僕なりにこう伝えてみようという案は出来上がったものの、来られないのであれば、僕の苦労も水泡に帰しただけだった。まったく、無駄骨だった。
この人は、このブログを見ることなんてないから、少々のことは述べても差し支えないだろう。去年の12月頃から来られるようになったクライアントだ。コンスタントに来られていて、それなりにいい方向に向かいつつあった。僕の印象では、最初に来られた頃よりも安定した4か月だったのではないかと思う。
せっかくいい調子で来ていたのに、この動きに耐えられなくなって、暴走を始める。この暴走がその人の困ったところである。暴走すると、何もかもが破壊される。お互いの感情も関係も破綻してしまう。だから、何があってもこの暴走だけは止めなければならない。力づくでも止めなければならない。でも、もう誰も止められないのかもしれない。僕でさえ、その抑止力にならなかったのだ。
この人の過去を見てみると、共人間的に生きることのできた時代もあった(だからこの人は理解することができると僕は信じている)し、何度か改善の機会もあった。すべて破壊してきた人だ。今回、この人にとっては最後のチャンスだったかもしれない。もう後はないかもしれない。と言うのは、この人の年齢的な部分が関係しているのだけど、今後はさらに改善が難しくなっていくだろう。
それに、以前、この人が治療を受けていた時と今とでは、この人の状況も違う。当時より、今の方が困難な状況だ。状況はどんどん困難になっていくだろう。
そう考えていくと、今回がこの人にとって最後のチャンスだったかもしれないと思われてくるわけだ。僕との関係も断って、その他の関係も断っていって、一体、何をするつもりなんだろう。何が何でも一人で生きてみせるといった気迫のある人ではないようだし、それだけ強い人ではなかった。いずれ人格が破綻していくかもしれない。今回はその瀬戸際だったかもしれないのに。
瞬間的な感情で、この人は過去のすべてを自分から締め出してしまう。その時には、この人の中には誰も存在しないのだ。この人は決して見捨てられた人ではなかった。過去において、この人に親切にした人もいたし、仲良くした人もいた。大切にされた経験だって、この人にはあるのだ。それらすべてを心から締め出す。憎悪一色になるのだ。
この人によくしてくれた人を、この人は恨むかもしれない。いつか僕も恨まれるだろう。もし、続けたいけれどお金がないというのであれば、僕はこの人の経済状況もなんとなく察しているので、僕も考えただろう。しかし、もう続けたくないそうだ。この人がどうなろうと、もう僕の及ばないところに行ってしまった。
僕は確信している。以前もどこかで書いたと思うけど、「治る病気」と「治らない病気」(あるいは「克服できる問題」と「克服できない問題」)があるのではなく、「治る人」と「治らない人」(「克服できる人」と「克服できない人」)とがあるのだ。病気や問題の種類よりも、その人自身の方が要因が大きい。
確かに「不治の病」はある。しかし、不治の病に罹患して、そこで絶望し、自分を断念してしまう人と、それに罹患しても自分の人生を諦めず、最後まで生きようとする人とでは、まったく違うのである。「病気」というところに目を奪われ過ぎてはいけないのだ。
つまり、「病気を治す」前に、「治る人間」にならなければならないのである。まだ、その途上だったのに、残念である。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)