3月11日(土):風化してまえ
震災から6年経った。メディアは震災を風化させないと頑張っている。しかし、これは本当に正しいことだろうかと僕は思うことがある。
被災者がいじめられたり差別を受けたりする。そういう報道をよく聞く。こういうニュースを聞くと、僕は震災なんていっそのこと風化してしまった方がいいんじゃないかとさえ思う。いつまでも風化させない、つまり過去にしない、それを現在生を帯びたままにするので、過去に被災した人が現在においていじめられるのではないだろうか。日本が一体になって、それを過去にしないようにと頑張っているのだ。それは人々から時間を止めようとしているだけではないだろうか。
しかし、誤解されないように書かなければならない。風化させるべきではないという意見に、僕は必ずしも反対ではない。風化させないということは、それを過去にしないということであり、常に目の前にそれを見るということなのだ。これはそれに耐えられない我々の問題なのだ。悲惨な出来事を常に見続けることに耐えられない我々の問題なのである。言い換えるなら、風化させないようにするには、我々があまりに未熟で幼稚すぎるのだ。風化させないという目的を達することができるほど、我々が成熟していないのだ。
被災者いじめや差別の中身をよく見てみよう。この内容は主に「賠償金」とか「放射能」に関するものだ。家族や住居を失ったといった彼らの不幸に関するものではないのだ。いじめる側、差別する側が、そうした不幸な場面を直視できないのではないだろうか。被災者に属する事柄には目を向けず、被災者に付随しているものばかりを非難しているだけではないだろうか。これは精神的な未熟さを示すものだと僕は思う。
例えば、うまくいかないことがあるとする。上手く行かない何かが自分の中にあると考える人と、上手く行かないのは親の育て方のせいだと考える人の違いのようなものだ。自分自身に属しているものを見ようとするか、自分に付随している他者を見ようとするかの違いだ。当然、未熟な人ほど自分自身に目を向けることが難しい。
被災者が「賠償金」を貰う。それがそんなに悪いことなのだろうか。彼らにはその権利があるし、その権利を認めているのは国であって、彼らではないのだ。さらに言えば、彼らが賠償金を貰うことでとやかく言うのであれば、彼らにではなく、国に対してとやかく言うのが筋ではないだろうか。
「放射能」も然りである。彼らは放射能を浴びたかもしれないが、彼らが好きで浴びたわけではない。彼らに何の落ち度があろう。被災者じゃなくても、職業によっては放射能を浴びている人もいるのである。
いっそのこと、震災なんて風化してしまえば、例えば福島の人と会っても、「福島から来はったん、それはそれは遠いところからよう来はったなあ」と普通に言えるようになるかもしれない。風化させないから、ただ福島から来たというだけで、福島の人に「地震」に関するありとあらゆるイメージを付与してしまうのかもしれない。
風化させないと考える人たちとは、考え方とか価値観の違いでしかないのだ。そういう人たちに反対しているわけではないのだ。そこはきちんと押さえておこう。ただ、それがいじめや差別を生み出すことに加担しているのであれば、風化させる方がましだと僕は考えているだけである。震災の記憶を保持することよりも、今現在生きづらい思いをしている人を救う方がましだと思うのである。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)