3月12日(日):不調
今日はどうにも不調だ。煮え切らない仕事ばかりだった。朝のクライアントも夜のクライアントも、苦しいことから逃げることばかりを考えてしまう人たちだ。もちろん、こういう表現は語弊があるのだけど、まあ、詳しくは書かないようにしよう。
ただ言えることは、二つ苦しいことがあれば、より苦しみの度合いの軽い方を見てしまうということだ。本当に苦しい方はなかなか見えないし、気づかれないものである。それに、苦しいことにただ耐えるということは(それはそれで価値のあることではあるけど)、本当はその苦しみに向き合っていることではないのだ。
最近、クライアントたちを見ていると、人生に真摯に取り組めない人たちだという気がしてくる。でも、僕のこの考えは時代遅れである。時間をかけて自己形成していくこと、人生を作り上げていくことなんて、今はあまり価値が置かれていないかもしれない。これほど重要なことはないと僕は思うのだけど。
朝から膝の具合が悪い。じっとしていても痛む。それに動かしにくい。動くことは動くのだけど、動かしにくい感覚がある。それでも逃げてはいけないと思い、リハビリ運動をこなすものの、痛みがあるというのが気になってならなかった。これからも繰り返しこれを体験しなければならないのだろうか。
昨日は書籍の原稿をけっこう書いた。空き時間のほとんどをそれに費やした。今日もそうしていたけれど、行き詰ってしまった。行き詰った時に、ブログなど、他の文章を書いてみるのもいいなと思い始めている。
原稿もとにかく書いてみることだ。書くだけでいいのだ。でも、そこに「上手く書こう」とか「面白いものにしよう」などというスケベ心が働くから行き詰るのだ。とにかく書くだけ書けばいいのだ。後からいくらでも修正できるのだから、気にせず書こう。
このブログでも思いのまま綴っている。思いつくまま、連想の働くまま書いている。こうして書き上げた文章は、まあ、100%悪文である。それが分かっていてもこういう書き方しかできないし、この書き方を止めたいとも思っていないのだから、我ながら困ったものだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)