<#008-10>「自由にしていい」という誤り
子育ては難しいものです。親にしてみれば分からないことだらけではないかと思います。育児書に頼る親もありますが、育児書にどう書いてあろうと、そこに書いてある通りのものが眼前に展開されているわけではないのです。それぞれの場面で親たちは試行錯誤しながら子育てをしてきたと思います。時には、どちらを選んだらいいかで判断に迷うこともあったでしょうし、判断に自信が持てなくて不安な日々を過ごしたこともあったことでしょう。
そうして親たちは意図していなくても間違ってしまうことがあります。私が見聞した範囲で、そうした親たちの誤りを列挙していくことになるのですが、誤りを犯してしまう親たちを責めるつもりはありません。誤った行為と誤った行為をした人物とは分けなければならないと考えています。
それに大部分の親たちはそれが誤ったことであるということを知らずにいるのです。知らず知らずのうちにしてしまったこと、時には良かれと思ってしたことが、よく考えると間違っていたことが判明したとしても、親たちに責任を求めることもできないと私は考えています。
(「好きにしていい」という誤り)
私はこの誤りによく遭遇するのです。子供に対して「好きにしていい」と親が保証することであります。まずは一つの例を挙げましょう。
その子供は、高校生の頃に不登校を起こし、学校を中退してから十年近く家に引きこもっているという状態でした。その子供のことで母親が相談に来ました。
この母親の育児方針は、子供の好きなことをさせるというものであったようです。学校に行けないなら行かなくてもいいということです。家に籠りたかったら好きなだけ籠ったらいいということであります。
しかし、母親は矛盾を子供に示しています。好きなことをすればいいと母親は繰り返し子供に言い聞かせます。好きなことをしてもいいと言われて、そのようにすることは、母親の言葉に従うことになるので、子供は好きなことができていないわけなのです。自由にしていいと強制されることは自由ではないことの証明になってしまうのです。これはいわゆる二重拘束の状況なのです。
今の話が理解できたでしょうか。分かりやすく言えば、母親はこう言っているのに等しいのです。「あなたはあなたの自由にしたらいい。でも、あなたは私の言葉には従わなくてはならない。その限りにおいてあなたは自由にしていいわけではない」と言っているに等しいわけです。送っているメッセージに矛盾が生まれるわけであります。
この矛盾を解消する一つの手段は自由の対象を明確化することであります。「自由に選んでいいよ」ということであれば、何を選ぶかは自由だけど、どれか一つを選びなさいと言っていることになるわけであり、この場合、矛盾が生じないということであります。何が自由であって、何がそうではないかが明確になっているから矛盾にならないのであります。
メッセージの内容がメッセージそのものと関連してしまうことを防げばいいといいうことであります。両者を切り離せばよいということになります。メッセージそのものとは、この場合、親が子供に伝えることであり、「子供がそれに従うことが期待されている」ということです。その条件と関連する内容が伝えられると矛盾を生じることになるわけです。
しかし、結局のところ、子供はこの矛盾に突き当たることになるでしょう。親は自由にしたらいいとか好きなことをすればいいとか言うけれど、そう言っている親たちが全然自分の自由にできていなくて、好きなこともできていないとすれば、遅かれ早かれ、子供は親に矛盾を見出すことになります。その結果、子供がどういうことになるかと言えば、親を信用できないということになるかもしれません。
(制限も必要になる)
ところで、自由にしていいとか、好きに振る舞っていいと言われることは、不安の強い人や精神的に弱っている人にとっては苦痛となるのです。そういう人たちは、むしろ限定してくれる方が助かると感じるものなのです。この子供がどういう人であるかは分かりませんでしたが、母親の言葉を苦しいものとして受け取ってきた可能性も考えられるのであります。
カウンセリングにおいても、「ご自由にお話し下さい」と言われて困惑を示す人がありますが、「気になっていることからどうぞ」と言ってあげるだけでその人が話し始めることもあるのです。少し限定するだけでもずいぶん違ってくるものだと思います。
制限する、あるいは限定するということは、自由を拘束するという一面があると同時に安全や安心を保証するという一面、保護するという一面もあります。一方しか見えていない親もおられるのではないかと思う時が私にはあります。
ところが、カウンセリングを受けに来る親たちはそのことが本当には理解できているのです。私は時々次のような問いを親に発するのです。砂遊びの好きな子供が砂場で遊んでいます。この子を広大な砂漠に連れていくと、この子は砂遊びをできるでしょうか、と。親たちはこの問いを間違えることがないのです。親たちは決まって「それは遊べないでしょう」と答えるわけです。理由を伺うと、砂場には囲いがあるからと、正答が返ってくることも少なくありません。(ちなみに、「砂遊びの好きな子供だから砂漠に独りで置いてもこの子は砂遊びをするだろう」と答えるような母親は、まず子供のことでカウンセリングを受けに来ることはありません)。
尚、面白いことに、こうした母親たちに、「場所が空いているにも関わらず、砂場の隅っこの方で砂遊びをしている子供って見たことがありますか」と尋ねると、母親たちは見たことがあるとお答えになられるのです。場所が空いているのだから、もっと広々と使えばいいのにとおっしゃられるのです。でも、その子はその小さな限られた領域で自由に遊んでいるんですよと伝えると、大抵の母親たちは上述の話を理解されるのです。
砂場には囲いがあります。その外側には公園とか校庭といった囲いがあります。さらにその外側には町とか学校とかいったより大きな囲いがあります。私たちはこうした「囲い」の中で生きているのであり、こうした「囲い」の中で自由が保証されているのです。この「囲い」を取っ払ってしまうと、どんなに強い人でも不安に襲われるようになると私は考えています。
先ほど、自由の対象を明確にすると矛盾が解消されると述べましたが、ここで自由の範囲を限定することでもその矛盾が解消されるということも押さえておきましょう。
「この範囲内で自由にしたらいいよ」と伝えることは、「この範囲内」でという限定があるから、その「自由」は親の文言に従うとか従わないとかいうこととは別次元のメッセージであることが明確になっているのです。
ついでながら、こういう例もありました。子供とコミュニケートしようとしますが、子供は反応してくれないとある母親は言います。例えば、「夕食に何が食べたい?」と訊いても、子供は答えないと言うのです。母親は自分が嫌われていると信じています。そこで、試みに限定をしてもらったのです。「夕食に何がいい?」と訊かずに、「夕食はうどんがいい? そばがいい? どっちがいい?」と訊いてみるのです。すると、子供が反応したそうでした。母親は自分が嫌われているから子供が反応してくれないのではなく、子供が答えられない(子供がそれに答えることのできない状態にあるためであります)質問をしてきたためであったということを初めて理解されたのでした。
(本項終わりに)
本項をお読みになられて、おそらく、「そんなこと当たり前で分かりきっていることじゃないか」と思われた方もおられるでしょう。よく分かっていることでも、うっかりやってしまうとか、その時は気づかないでいるとか、そういうことも起こるので、よく分かっていること、当たり前のことでも、敢えて意識化しておくことも無駄なことではないと私は思います。
自由に育ててきた子供なのに、その子が自由に社会に出れなくなってしまうことが分からないと母親は言うのですが、現実には、子供は母親のメッセージにきちんと反応していると考えることもできるのです。ただ、親たちは自分がそういうメッセージを送ってきたということを知らないでいるのです。
(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)