<#007-1>臨床日誌(1)~面接をすること

 

 臨床日誌としてスタートさせよう。これは通常の日記とか、あるいは読書評その他のシリーズと違って、心理臨床家として書く日誌にしようと思う。その他のブログは一個人として書いているものばかりであるが、意図的に臨床家の立場から書こうと思う。(注・臨床日誌当初ブログにて掲載していた)

 

 生きている間に時代や社会も大きく変わる。これはいつの時代の人でも経験することだ。時代や社会の動きに人間は必ず巻き込まれていくものだと思う。僕もまたそうだ。変動する社会や時代の中で、どのように自分自身を位置づけるか、僕も含め、すべての人が問われるのではないだろうか。。

 

 僕はやはり面接をしたいと思う。リモートではできないし、メール等のツールでも僕はできない。面接形式を続けよう。時代に反することになっても、僕はそれをする。(注・これを書いたときはすでにコロナ禍であった)

 面接は節約にもなるのだ。一回の面接は、10回のリモートに、100通のメールのやり取りに匹敵する、いや、それ以上であると僕は考えている。実際に会って得られること、与え合うことは計り知れない。

 

 ワイドショーなんかを見ていると、出演者の一部がリモート出演だったりする。スタジオに現実にいる出演者と、モニターを通してその場にいる出演者が共演していたりする。後者はリモート出演しているということであるが、リモート出演者はむしろその人の不在感が強調されているように僕は感じる。モニターを通してその人が出ているのだけれど、その人の不在感が却って前面に打ち出されている感じがしてしまうのだ。

 リモートで面接をする。失われるのはお互いの実在性なのだ。なるほど、テレビ番組では出演者の実在性というものは問われないかもしれない。そんなの番組に必要ないし、VRキャラクターであっても一向にかまわない。しかし、カウンセリングや心理療法ではそれはとてつもなく必要なことなのだ。

 自分がないと訴える人もある。その人は自己の実在性を感じとることができないことが多いのだけれど、そういう人はまず他者の実在性に直面しなければならないのだ。リモートでやる限り、少なくともそういう人にとっては、利益をもたらさないことになる。

 また場の理論、共有される空間と時間など、面接の利点がいくつかあるのだけれど、今はそこまで話を広げないことにしよう。

 

 器用な人であればいろんなことができるのかもしれない。僕のように不器用な人間はこうと決めたことに忠実である方がいい。ブレない方がいいと思う。面接もリモートもラインカウンセリングも何でもできるというような人間ではないと自分では思うので、一つのことに限定した方がいい。あれこれ手を広げると収拾がつかなくなる人間だ。

 

 コロナは人々の生活を変え、また社会の在り方も変わっていくだろう。翻弄されないためには、自分の足場をしっかり固め、方向性を見極めて、一途にその方向に進んでいくことだと僕は考えている。それが正しいかどうかではなく、それが自分にとって必要だからそうしたいのである。迷ったり試行錯誤するだけの時間が僕には残されていないかもしれないのだ。若いころならいろんなことにチャレンジしてもいいのだろうけれど、もう若くもない人間だ。限られた時間の中で、できるだけのことをやりたいと願う。迷ったり、試行錯誤したりする贅沢は許されないのだ。

 僕はあくまでも面接をやっていく。そこだけは変えない。

 

文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 

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