9月28日(金):屈辱の経験
この三日というものバタバタの連続であった。
まず、25日の火曜日は、本来なら定休日なのであるが、クライアントの都合で面接をすることになった。それは、まあ、いい。
しかし、定休日と謳っているのに、この日に限って電話のオンパレードである。予約日時の変更、新たな予約など、次々に入ってくる。中でも、あるクライアントの電話には悩まされることになった。
その人は一度面接を受けられて、二度目が実現するかどうかを待っている状態であった。この人の電話が入った時、二度目の面接が実現すると胸躍る思いがしたのであったが、なんてことはない、上司から診断書を提出するように求められたというのである。
僕には診断書なんて書けない。そんな資格はない。でも、仮に資格があったとしても、一回だけ会った人の診断書なんて書けるものではない。それに、仮に診断書を書くとしても、その作成期日は、基本的には作成者に決定権があるものだ。医師が作成する場合であれば、2週間とか1ヶ月とかの作成時間を患者は承認することになる。また、その診断書作成のために診察なり面談なりをしなければならないこともある。
この上司は今週末には提出するようにとクライアントに要請している。それに間に合わせるためには僕は3日で仕上げなければならないことになる。狂気の沙汰である。
一回だけ、一時間の面接をしたクライアントの診断書を、僕の意向は無視して、一方的に作成することが決定されており、尚且つ、その作成の時間を作成する側が決めることが許されず、依頼した側が決定しているということである。しかも、診断書の目的や使途、範囲の限定なども僕には知らされないのである。この上司の依頼は常軌を逸しているのである。いや、この上司自身が人間として最悪なのである。
このことから判断されるのは、この上司には契約という概念が著しく欠如しているのである。一般的な流れとしては、上司からの要請であれ、患者はまず医師にその旨を伝え、医師にはその診断書作成の目的、提出先、使用企図などが知らされるだろう。当然、料金も発生する。診断書は私費となるので、料金に関しても両者で同意を得なければならない。これこれの料金がかかりますが、よろしいですか―はい、けっこうです、という同意がある。加えて、これだけの日数がかかりますが、よろしいですか、と作成期間の同意も得る。患者はいついつまでに提出するよう求められていると医師に伝えることはできる。多少の要望を出すことはできる。医師はそれに間に合わせようとするかもしれないし、それは無理だと言うかもしれない。いずれにしても3日という期間はあり得ない。そうして医師と患者の間で合意し合い、その上で医師は診断書作成に取り掛かることになる。
要するに、診断書作成は一つの契約に基づいてなされるのである。この上司には契約概念が欠如していることが僕には伺われる。そして、契約概念が欠如しているということは、この人は自他が未分化なのである。他者概念が希薄であるか、他者は自己の一部のように体験されているのである。自分が他者と契約を交わすという観念が消失しているのは、この他者観念が欠落しているのであり、それは自他が未分化で、自他融合的な経験をしているように僕には思われるのだ。
僕は本当は断りたかった。こんな一方的で非常識な要求に応じることは、僕の職業倫理に反するものである。屈辱的な経験だった。しかし、これを断るとこのクライアントがどんな目に遭うことになるやら知れず、クライアントを守るために僕はこれを引き受けた。
従って、この3日間というもの、この診断書まがいの文書作成に追いまくられた次第である。A4用紙にして23枚の見立て書を僕は作成した。2万円の料金を依頼者に請求することにした。この依頼者が怒りで反応したとしても、それは正規の手続きを経ようとしなかったこの依頼者の落ち度である。この上司の自業自得である。
この診断見立て書の作成に、火曜日から今日の金曜日深夜まで費やしたのであるが、仕事の合間を縫って、日常の営為を幾分犠牲にして取り掛かった。本当は3万円くらい請求したいのであるが、2万円にまけておく。
それで、よりによってこの三日間は仕事の方も忙しかった。水曜日にはガッカリすることもあった。
クライアントである母親が子供との間で行動化を起こしたのだ。この子が大切にしているものを母親は奪ったのだ。当然、僕はそういうことをしなさいとは言わない。むしろ、この子が大切にしているその品物を母親も大事にしなさいという意のことを伝えている。
子供が大切にしているものを奪うと、どんなしっぺ返しが来ることになるか、この母親もよく理解できたであろう。いや、理解してほしい。
ちなみに、この子は別に悪い子ではなさそうである。僕が気になっているのは、この子を取り巻く「取り決め」の数々である。母親との間で、祖母との間で、この子はさまざまな「取り決め」に取り巻かれているように思われて、僕はそこを心配している。
まあ、もう心配しても仕方がない。この母親はカウンセリングも無意味だと言っている。おそらく、今後はお見えになられないだろう。自分で勝手に行動化しておいて、まるで僕が無能だからだと言わんばかりだ。
火曜日、水曜日と、続けて屈辱的な経験をしたわけである。
ウンザリするような仕事に追い回されて、ろくでもない出来事を経験して、本当につくづく自分に嫌気がさしている。もう少しまともなことをしやがれってんだ。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)