9月15日(土):分からないことだらけ
世間では三連休ということである。僕自身はそうではないが。でも、三連休ということもあって、今日と明日は仕事や予定がけっこう詰まっているのに、月曜日は閑散としている。まあ、仕方がない。僕の力でどうこうできない部分もあるのだから、少なくともこの二日間はしっかり働き、しっかり活動しよう。
今朝、ガラス屋が窓ガラスを嵌めにくることになっていた。先日の台風で割れた窓ガラスだ。僕はそれがどんな風になされるのか立ち会いたかった。
なんてことはない、ガラス屋が来て、窓枠ごと持って帰っただけだった。窓枠を持って帰り、工場でガラスを嵌め、再び戻ってくるとのことだった。
どんな風にして窓ガラスを入れ替えるのか、どんな仕事振りをするのか、見てみたかったのに、残念だ。
お昼に職場に着く。留守電が点滅している。新規のクライアントだ。明日の空いている時間にうまく入ってくれた。
その後、いささか慌しい時間を送る。一応、今日の予定作業はこなす。いつものように、可もなく不可もなくといったところだ。
この可もなく不可もなく仕事をできたというのは、僕は悪い意味で使っているつもりはない。それなりのことをやったという程度だ。でも、その仕事に満足しているわけではない。
他人からはどう見えるか分からないけど、僕はそんなに自信満々な人間ではない。いつも、迷いながら仕事をしている。人を理解すると簡単に言うけど、本当に他人を理解するなんてことは不可能だ。理解しようとすればするほど、分からないところが出てくる。分からないところは、クライアント本人も教えることができない部分であったりする。そうなると、僕はそこを考えてみる。考えても考えても分からないことばかりである。
例えば、次のようなやりとりを見てみよう。これは架空の例だけど、こういうことは時々ある。
僕「こんにちは」
相手「こんにちは。最近は暑い日が続きますね」
僕「そうですね。なかなか今年の夏は厳しいですね」
相手「本当ですよね」
しばらく時候の挨拶などをしてから、僕「では、始めましょうか。その後いかがでしょうか」
相手「いやあ、暑さで参っていますね」
面接前の世間話から切り直しをして面接を始めようと僕はしている。この人は本当に暑さで参っているという経験をしているかもしれないけど、一方で、面接に切り直してもなおこの人は世間話を引きずっているとも考えることができる。言い換えれば、面接へ入ることへの抵抗がこの人にあるかもしれないということだ。
もし、抵抗があるとすれば、この後の話でもどこかでそれが顔を出すであろう。今のところは分からない。尚且つ、いつもなら速やかに面接に入るこの人が、この日に限ってそれが困難であるとすれば、前回から今回までの間に彼に何かが起きたのではないかという推測が成り立つ。
こんな小さな場面でも、いくつもの疑問が噴出してくる。僕は分からないので、考えてみる。こうして考えることが山積になっていくのだ。
また、この人のカウンセラーが僕でいいのかと不安になることもある。この人にもっと相応しいカウンセラーが他に居るのではないかと思えてくる。自分にはこの人のカウンセラーになる資格がないのではと思えてくるのだ。
そんな思いに駆られると、毎回のように心残りを僕に残す。もっとこう言えばよかったのではないかとか、ここを取り上げた方が良かったのではないかとか、あるいは、あれは取り上げない方が良かったのではないか等々、いくつもの不安と疑心が浮上してくる。こうした不安や疑問の一つ一つを僕は考えざるを得なくなってしまう。
でも、そんな風に思ってしまう自分が間違っているとかつての僕は信じていたけど、今は違う。むしろ、真剣に相手と関わった時にこそそういう気持ちが生じるということに僕は気付いている。表面的に関わっただけでは、おそらく、そういう疑問すら湧かないだろう。なぜなら、相手や自分のことで多くのことを見過ごしているからだ。しっかり関わり、相手をよく見ているからこそ、僕の中でそういう気持ちが生まれるのだと今では思うようになった。
こうして、これからも自信のないまま、不安と疑心に襲われ続け、自他に関して多くの答えられない疑問を考え続けることになるのだろう。
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)