7月6日(金):ミステリバカにクスリなし~『第八の日』
エラリー・クイーンの後期の作品。1964年発表の作品であるが、舞台はその20年前の1944年に設定されている。世界大戦の真っ只中、エラリーは軍用映画の脚本の仕事でハリウッドに赴く。そこでの激務に困憊したエラリーは、免職となり、ニューヨークへと帰る。道中、彼はネバダ砂漠にて、世間から隔絶した共同体に迎えられる。
クイーナンの村と呼ばれる共同体では、200人ほどの村民が信仰を厚く守り、自給自足の質素な生活を送っていた。村の指導者、それも精神的な指導者は「教師」と呼ばれ、彼の話では50年来犯罪と呼べる出来事はここでは起きなかったという。しかし、犯罪と無縁の社会で、犯罪という概念すら持ち合わせていない村人たちの間で、殺人事件が発生してしまう。
ストリカイという名の雑品係が、教師以外に踏み入ることの許されない部屋で撲殺された。調査に乗り出したエラリーだが、アリバイといい証拠といい、犯人は教師を指しているとしか思えなかった。村の評議員を集めて裁判を行うが、教師は罪を引き受けることになった。煮え切らないエラリーはもう一度、事件を丹念に構築しなおす。
事件そのものは単純で、推理要素は薄い。しかし、指紋という観念のない人たちに指紋の照合をどう説明するか、時間の観念の希薄な人たちからどのようにアリバイを取っていくかなど、通常のミステリでは問題にならないところが問題になる辺りに面白味があった。
さらに興味深かったのは、悪を完全に排除したような社会に生きる人たちの中に悪が生まれていった過程である。村民の心の中に「悪」が生まれると、外の世界への誘惑が生まれるのだ。満ち足りた、ある意味で自閉的な社会で満足していた人たちが、それでは満足できなくなるのだ。これはアダムとイブの話と同種のものだと思う。
これをどのように評価するかは意見が分かれるところだと思うのだけど、僕はこれによって個が確立されると思う。悪が彼らの中で生まれることで、彼らは人間になるのだ、僕はそのように考える。
しかし、著者は村人たちにそのような運命を辿らせないようにする。事件解決後のエラリーに代わって、新たな「預言者」を村に送り込むことで、この物語は幕を閉じることになる。ここは「第八の日」というタイトルと関連する。神が6日かけて天地創造し、7日目に休まれた、その翌日ということを意味している。悪が生まれること、預言者が送られること、きっと8日目にはそういうことが起きるのだろう。
また、エラリーお得意の「言葉遊び」もある。大抵はダイイングメッセージの形でなされることが多いのだけど、本作では失われた本の書名でそれがなされている。教師の話では失われた本のタイトルは「ムクー(Mk’h)」とのことなのだが、最後にその書物の名が明らかになる。これもあって、著者は時代を戦時中にしたのかとも思う。
お馴染みのリチャード・クイーン警視は登場しないが、教師が象徴的には「父親」役割を果たしているので、他のクイーン父子の活躍する諸作品に対して違和感を覚えなかった。
もう一つ追加しておくと、本書はエラリーが砂漠に入り込むところから始まる。それ以前の部分はことさら描かなくてもよさそうなものであるが、やはり、そこは欠かせないのだろうと思う、文明から隔絶された社会を描くために、文明社会も描く必要があったのだろう。完全な平和(脆い平和でもあるが)を描くためには戦争という状況を描く必要があったのだろう。
さて、本書の唯我独断的評価であるが、ミステリとしては凡作である。でもテーマがすごくいいと思うので、4つ星を進呈しよう。
<テキスト>
『第八の日』(And on the Eighth Day)エラリー・クイーン著(1964)
青田勝訳 ハヤカワミステリ文庫
(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)